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第1―17話

羽鳥が拳で涙を拭って、横澤と桐嶋に続きリビングに入ると、日和の明るい声がした。 「あ!今朝会った羽鳥のお兄ちゃんだ! 怪我は大丈夫?」 羽鳥は笑って「全然大丈夫だよ」と答えた。 「良かったあ! 今日はね、横澤のお兄ちゃんと作ったデミグラスソースのハンバーグなの! 沢山食べてね!」 日和はニコニコ笑うとキッチンに入って行く。 羽鳥は食欲は無かったが、桐嶋と約束したとはいえ、わざわざ自分の分まで作ってくれた横澤と日和の手前、料理を口にした。 デミグラスソースのハンバーグ。 凄く美味しい。 吉野の好物のひとつだ。 自分だったらもう少し違う味付けにするかな、と熱々のハンバーグを食べながら考える自分が滑稽だった。 食事が終わると横澤が「ほら水。薬あんだろ」と言って水の入ったグラスを渡してくれた。 羽鳥は今日の午前中、病院に行ってきたのだ。 炎症止めと鎮痛剤を水で流し込む。 「お兄ちゃん、病気なの? 怪我してるから?」 日和が大きな瞳を更に見開いて訊く。 答えたのは桐嶋だった。 「そうだよ。 それよりひよ、今日は算数の宿題がいっぱい出たんだろ? 早くやらないと今夜は寝れないぞ~」 日和がぷーっと膨れる。 「お父さんの意地悪! 横澤のお兄ちゃんがいるから大丈夫だもん!」 日和はプイッと振り返ると自室に入って行く。 横澤が計ったように、コーヒーをローテーブルに運ぶ。 「羽鳥、ソファに移動しようぜ」 桐嶋が促すと、羽鳥は立ち上がった。 羽鳥は昨夜、料理と酒が評判の居酒屋でひとり飲んでいた。 本当は吉野に会いたかったが、吉野に会って普通でいられる自信が無い。 居酒屋に入る前、高野から掛かってきた電話の内容や自分が外された取材のことを、吉野に問い詰める自分が頭に浮かぶ。 そうして吉野を傷つけるのが怖かった。 羽鳥は料理は摘む程度で、日本酒をぐいぐいあおっていた。 羽鳥は酒に強い。 ザルというより枠だと良く言われる。 そんな羽鳥に女の子が二人、一緒に飲みませんかと声を掛けてきた。 いわゆる逆ナンというやつだ。 いつもの羽鳥なら上手くかわして断っていただろう。 けれどその時は、返事をするのも面倒臭く、無視していた。 女の子達はしつこく羽鳥を誘う。 それでも無視していると、「モテる男は辛いねー」「無視して余計気を引くなんて高等テクってやつか?」と中年の男5人から次々と野次が飛んだ。 無遠慮で下品な無数の言葉。 それでも普段の羽鳥なら相手にすることも無く、場を収めていただろう。 だがその日の羽鳥は、自暴自棄になっていた。 もう、どうでもいい… 羽鳥は売られた喧嘩を買った。 野次られた以上に男達を罵倒した。 女の子達が怖がって羽鳥の元から逃げて行く。 男達に店から引き摺り出され、殴る蹴るの暴行を受ける。 羽鳥は抵抗しなかった。 通行人の悲鳴。 店の店長と従業員が必死に止めようとしている怒鳴り声。 身体に打ち込まれる痛み。 その全てが吉野と京極を忘れさせてくれる。 「いい加減にして下さい! 警察呼びますよ!」 店長が一喝して男達が怯んだその時。 桐嶋と横澤が偶然現れたのだった。 桐嶋は鮮やかに酔った中年男達を納得させた。 綺麗な顔に凄みを浮かべて「今、警察を呼ばれたら困るのはどちらでしょうね?抵抗していない人間を集団暴行かあ…一晩は帰れないんじゃないんですか?」と笑顔で言うと、男達は青くなり、店長に飲み食いした代金以上の金を握らせ、走って人混みに消えて行った。 本当は警察を呼んでも良かったが、桐嶋は羽鳥の異常に気が付いていた。 例え被害者でも、今の羽鳥が警察の尋問に答えるのは無理だ。 桐嶋は店長に羽鳥の代金を支払い、居酒屋であった出来事を聞くと、羽鳥を支える横澤に近付いた。 「どうだ?」 「どうもこうも…滅茶苦茶だ」 横澤が心配そうに羽鳥の顔を覗き込む。 「じゃあ帰るか」 桐嶋が横澤の反対側に廻り、羽鳥を支える。 「何処へ?羽鳥んちか?」 「馬鹿だなあ、隆史」 「何が馬鹿だ!」 「俺達の愛の巣だよ」 桐嶋の囁きに横澤は真っ赤になった。 桐嶋のマンションにタクシーで着くと、横澤は甲斐甲斐しく羽鳥の面倒を見てやった。 横澤が自分のパジャマを羽鳥に着せて一段落つくと、桐嶋が言った。 「羽鳥、明日の午前中に病院に行け。 打撲だけでもかなりやられてるし、万が一骨折でもしてたらやっかいだからな。 洋服なんかは俺のを着ろ。 適当に選んでおくから」 羽鳥が力無く頷く。 「なあ羽鳥」 桐嶋がやさしく羽鳥の背中を撫でる。 「明日の夜もうちに来い。 今夜はもう寝ろ」 羽鳥は身体を床に擦り付けるように折り曲げると、肩を震わせ咽び泣いた。 横澤は羽鳥が客間で寝たのを確認すると、高野に電話を掛けて今夜の出来事を報告した。 明日の午前中、羽鳥が病院に行くことも。 高野は「分かった」とだけしか言わなかった。 そして翌朝、桐嶋達が帰宅していた時には既に眠っていた日和に羽鳥は会い、「初めまして。桐嶋さんの会社の後輩の羽鳥です」と挨拶した。 日和は羽鳥の顔の痣と傷に驚いた様子だったが、元気良く「初めまして。桐嶋日和です。お父さんがいつもお世話になってます!」と挨拶をして羽鳥を微笑ませた。 羽鳥のコートやスーツはボロボロで、羽鳥は朝食を終えると、まず高野に怪我をしたので午前中病院に行ってから出勤しますと電話を掛けた。 高野は「分かった。時間は気にするな」と言ってくれた。 それから洋服一式を桐嶋に借りて、桐嶋に紹介された桐嶋のマンションから近い病院に行った。 診断は多数の打撲と少々の切り傷と擦り傷で、幸い骨折はしていなく、湿布と炎症止めと鎮痛剤が処方された。 そうして羽鳥は病院から丸川書店に直行したのだった。

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