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第1―19話

吉野の取材の当日の朝。 小野寺はため息を吐きながら玄関の鍵をかけた。 するとバッと開く隣の扉。 「おはよ」 「…おはようございます」 朝から会いたく無い相手に一番最初に会ってしまう『隣同士』という逃げられない間柄。 小野寺がまたため息を吐くと、エレベーターホールに向かって歩き出す。 高野は直ぐに小野寺に追いつき、二人でエレベーターに乗る。 「辛気くせーなー。 朝からため息ばっかり吐いてんじゃねーよ」 「はいはい、すみませんね。 辛気臭い部下は置いて、どうぞお先に出勤なさって下さい」 「置いてけるワケねーだろ」 「何でですか?」 「お前が好きだから」 高野はあっという間に小野寺を壁に押し付けると唇を奪った。 結局、小野寺は高野を突き飛ばし駅まで走った。 しかしまた直ぐに高野に掴まり、一緒に出勤することになった。 最悪だ、最悪だ、最悪だ! あのセクハラ上司!! 小野寺は編集長席に座る高野を見ないようにしながら、仕事に集中する。 すると暫くして隣りの木佐が「律っちゃんは切り替えが早くていいね~」と言ってきた。 「切り替え…ですか? 俺、結構ぐるぐるしますけど…」 木佐の言っている意味が分からずキョトンとして小野寺が答えると、木佐が青い顔をして囁いた。 「そう? でも全然気にしてないみたいだし。 俺の方が酷いっつーか…。 もう羽鳥が痛々しくて見てらんなくて…胃が痛いよ」 「あっ…」 小野寺は今更ながら羽鳥に目をやる。 羽鳥は普段と変わりない。 スーツをキッチリと着こなし、ポーカーフェイスで冷静沈着に仕事をこなしている。 けれど、何かが違う。 まるで漂白されたように『意志』が見えないのだ。 離れていても仕事が完璧に滞りなく進んでいるのは分かる。 でもそれは機械のような正確さだった。 感情のひと欠片も見えない。 「もうさ、諦めきっちゃったっていうの? あれじゃロボットか悟りを開いたお坊さんみたいじゃん。 見てらんないよ」 「そう…ですね」 小野寺は自分を恥じた。 高野に朝からキスなんかされて、その事で頭が一杯で、高野を意識しないように仕事のことしか考えないようにしていたから。 羽鳥の変化など眼中に無かった。 同僚が辛い思いをしてるのに、気にもならなかった。 高野さんがキスなんてしてくるから!! 高野さんが…。 あ…。 小野寺はハッとして高野を見た。 高野は書類片手に他部署の人間と打ち合わせ…というよりやり合っている。 高野さん…もしかして…。 俺が朝からため息ばっかり吐いてたから…羽鳥さんが心配で…。 だから羽鳥さんを余り気にしないように、あんなことを…? 小野寺がぶわわっと赤くなっていると、高野から大声で指示が飛ぶ。 「そこのくっちゃべってる暇人二人組。 明日の朝イチの会議の準備、二人でよろしく」 「えぇー!?」 木佐と小野寺が同時に立ち上がる。 「うるせーうるせー。 もっと仕事したいなら、そう言え」 木佐と小野寺が黙って、今度も同時にストンと椅子に座る。 「高野さんの鬼…。 律っちゃん、今夜は帰れないかもよ」 「…そうですね」 木佐と小野寺は真っ青な顔をして呟くと、それぞれの仕事に戻るのだった。 夜、7時。 木佐は明日の朝、会議で使われる会議室に篭って会議の準備に追われていた。 小野寺は作家の自宅で打ち合わせがあり、その後丸川書店に戻り、木佐と一緒に会議の準備をすることになっている。 するとノックの音がして、木佐が「はい」と返事をすると、会議室のドアが開いて羽鳥が入ってきた。 手には小さな紙袋を持っていて、「ほら、差し入れ」と言って木佐に渡してくれる。 木佐が中を見ると数種類のスィーツが入っていた。 「羽鳥~!!サンキュ!!」 「大丈夫か? 手伝ってやりたいんだが、高野さんに木佐と小野寺にやらせろと言われてしまって」 羽鳥が苦笑して、ぐるっと会議室を見渡す。 「高野さん、鬼だよね…。 最初はエメ編総出で準備する予定だったのにさ。 急に二人でやれとか」 「…高野さんなりのやさしさなのかもな」 「え?」 「俺のせいだってことだ。 気を使わせてすまん」 木佐が紙袋の持ち手をぎゅっと掴んで、羽鳥を見上げる。 「羽鳥、俺の話、聞いてくれないか? 千秋ちゃんと京極さんの…」 「あいつにさ」 羽鳥は木佐の言葉を遮ると淡々と語り出す。 「今朝、あったかい…出来立てのメシを食わせてやれたんだ。 あいつ、食べるの大好きだから。 いつもみたく、俺の作ったメシは最高って言ってくれた。 ニコニコ子供みたいに笑って、ほっぺたいっぱいにして」 「羽鳥…」 「最後に笑ってさよなら出来た。 俺は満足だよ」 「さ、さよならって…別れたのかよ!?」 羽鳥はふふっと愛げに笑う。 「そうじゃない。 そうじゃないけど、恋人の役割は今日限りにする。 吉野の邪魔にならないように」 「羽鳥、ちゃんと千秋ちゃんと話せよ! お前のその気持ち伝えろよ! 千秋ちゃんなら絶対分かってくれるって! つか別れる理由がねえじゃん!」 「…もし、あったら?」 羽鳥の声が震える。 「今なら少しずつ離れて、吉野に新しい恋人が出来ても、俺は幼馴染みの親友の立場だけは失わずに済む。 以前はお互いの為に二度と会わない選択をすることも出来た。 でも一度吉野の恋人になったら…もう駄目だ。 俺は吉野に二度と会えなくなるなんて耐えられない」 「羽鳥…」 「すまん。 つまらない愚痴を聞かせたな。 じゃあ会議の準備頑張ってくれ」 「羽鳥、待て! 待てよ!」 羽鳥のコートを掴む木佐の手を、羽鳥はやさしく振りほどくと、振り返ること無く会議室を出て行った。 夜、11時。 吉野は風呂上りにご機嫌でビールを飲んでいた。 夕食を済ませてから帰って来たから、帰りは遅くなったが、今夜はシャワーだけでなくゆっくりと湯に浸かると、大分疲れも取れた。 取材中に少し具合が悪くなったりしたが、周りに迷惑をかける程では無かったし、目的もちゃんと果たせた。 気になるのは、帰って来て直ぐ羽鳥に『取材は大成功!無事帰宅』とメールしたのに未だ返事が来ない事だ。 だけど。 吉野はローテーブルに乗せておいたA4サイズの10枚ある印字された用紙を手に取る。 それは帰宅したら、ダイニングテーブルに置かれていた羽鳥からの手紙のような物。 手紙のような、というのは、別に羽鳥の心情が書かれている訳では無く、家事の手順が細かく記されているのだ。 洗濯機の各種設定の仕方から、洗剤の銘柄。 掃除機の有効な使い方やゴミ袋の変え方。 キッチンの料理器具や調味料の場所から、作り置きの惣菜を温める時の注意点など。 生活に必要な事が細かく書かれている。 冷蔵庫の中には作り置きの惣菜で冷凍庫までパンパンだ。 昨日までは無かったのに、いつ作ってくれたのかな…。 もしかして昨日の夜中に来て作ってくれたのかもしれない。 あいつ、一睡もしてないのかもしれない。 ちゃんとお礼しなきゃ… でも。 吉野は思わず笑顔になってしまう。 バレンタインデーがある! バレンタインデーにトリを驚かせて超喜ばせてやるんだ! それにトリだって。 最後の紙に書かれていた言葉。 『俺は当分来れないから、この用紙を役立ててくれ』 これって、バレンタインデーの準備を見ないようにするから来ないってことだよな? トリも楽しみにしてるんだ… 吉野はひとり赤面すると、残りのビールを飲み干し、羽鳥からの手紙を両手で大切に胸に抱くと、ファイリングする為に仕事部屋に向かった。

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