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第1―24話

井坂が続ける。 「吉野さんが悲鳴を上げて脚立ごと倒れそうになって、偶然その店にいた遼一は鍋や釜の降る中、吉野さんを抱き留めた。 そして恐縮する吉野さんに言ったんだ。 『軽いですね。羽根でも生えてるんですか?』 初対面の相手に言えるか!?お前ら! 言えねーよなあ…。 俺は赤面したね。 あいつはもう外人だな。 で、店の前を通り掛かった木佐と小野寺が騒ぎが気になって店に入って来た。 これでメンバーが揃った訳だ」 「バレンタインデーの…!」 「お前も鋭いぞ、高野。褒めてやる。 まあこの説明で分かんなかったら、明日からその席は違う人間が座ることになるがな」 恐ろしいことをトーンを変えずに言い、井坂が話しを元に戻す。 「吉野さんは幸い怪我はしていなかった。 その時は遼一も、当たり前だが吉野さんの正体に気付いて無かった。 そこで俺は、吉野さんをミューズと称え、忙し過ぎて日本になかなか帰国も出来ない遼一にプレゼントしてやろうと思った。 思い出という名の…それも最高の思い出だ。 俺ってスゲー」 ウットリと言う井坂に木佐が突っ込む。 「じゃあ俺と律っちゃんは…?」 「あ?ついでだ、ついで」 「ついで!?」 「まあそれと人見知りの吉野さんが緊張しないよーに保険かけたんだよ。 知り合いが一人でも多い方が吉野さんもリラックス出来るだろう?」 「ついでの…保険ですか…」 小野寺が項垂れる。 そんな小野寺を無視して井坂が言う。 「それで俺達は俺の行きつけのホテルの個室があるカフェに向かった。 そこで吉野さんに遼一を紹介し、吉野さんの正体を伝えていいか確認した。 吉野さんは快諾してくれた。 その後の遼一の浮かれようときたら!! 『空から降って来た天使は僕のミューズだったんですね!!』って吉野さんの手を取って跪いちゃって…。 天使が鍋や釜と一緒に降って来るかっつーの! それで遼一の店の話からチョコレート繋がりでバレンタインデーの話になった。 吉野さんは去年、味は兎も角、形が酷かったと落ち込んでた。 そこにチョコレート王子遼一が言う訳だ。 『僕でよろしければご指導させて下さい』 ロマンだよなー!!」 「でも俺達も誘ってくれましたよね…?」 井坂は木佐をチラッと見ると 「何度も言わせんな。 ついでの保険だ」 井坂はそう言い放つと、羽鳥に向き直った。 「遼一は日本生まれだが、1才にもならないうちに、親の仕事の都合で海外に移住した。 それ以来日本に住んだことは無い。 遼一に会う時は俺が遼一の住む海外に行くくらいだからな。 日本への憧れも強いし、いくら海外育ちでも日本人が欧米人の中で成功するのは並大抵の事じゃない。 そんな時、遼一は吉川先生の漫画を読むんだよ。 リリカルでセンシティブな世界に触れて自分をリセットするんだとさ。 読者カードを送ってくれる日本の読者と何ら変わらない。 もう分かるよな? 遼一の吉野さんに対する気持ち。 まあ分かんないなら、お前はその程度の男ってことだ。 漫画編集としても一千万部作家に相応しく無いし、俺だったら恋人だってご免だね」 井坂はそこまで言うとエメ編のメンバーを見渡した。 「以上!んじゃそのスーツのどっちか選んでレポートつけて明日の朝までに提出しろよ!」 呆気に取られる皆を残し、井坂はまた来た時と同じようにフラリとエメラルド編集部を去って行った。 井坂は社長室の前室にある秘書室に入る。 秘書室に控える秘書達が全員立ち上がる。 「お帰りなさいませ」 「ん。 それより朝比奈はまだ戻ってないな?」 「はい。 朝比奈さんは予定通り16時のお戻りになります」 「分かった」 井坂は腕時計を見る。 今、14時30分過ぎ。 井坂はホッと息を吐くと、そそくさと社長室に入りスマホを取り出しタップする。 「俺だ」 『分かってる。首尾は?』 「お前に言われた通り、遼一の正体と吉川先生と遼一の出逢いを話したよ」 『羽鳥は納得したのか?』 「納得も何も! あれで分かんないような阿呆なら配置転換してやる」 『…そうか。 井坂、済まなかったな。 忙しいのに。 社員のプライベートで振り回して』 井坂がスマホをぎゅっと握る。 「お前なあ!! 朝イチで社長室に乗り込んで来て、朝比奈を追い出して、俺を脅したくせに!! 今更、殊勝な声出して謝ってんじゃねーよ!」 『仕方ないだろう。 普段ツンツンしてる俺の愛しいやつが泣くんだよ…。 もう、かわいくてかわいくて…。 どんなお願いだってきいちゃうよなっ!』 「うるせー! お前のテディベアも地方に配置転換してやろうか!?」 『……井坂。俺の握ってるお前の秘密は今朝言ったことだけじゃないんだぞ? もし朝比奈さんが知ったら…』 「桐嶋、お前の仕事ぶりは勿論、横澤の仕事ぶりも評価してる。 本社に無くてはならない存在だ」 『いえいえ社長、恐縮です。 では失礼いたします』 通話の切れたスマホを井坂がソファに投げ付ける。 でも、ま、いっか。 井坂はスマホを拾うと社長椅子に座る。 桐嶋に脅されたとはいえ、遼一の夢も壊さないで吉川千春大先生の恋も壊さない…引いては売り上げも落とさない…俺って凄くないか!? つか俺、恋のキューピッド!? いや、キューピッドはローマ神話の愛の神…。 参ったなあ…キューピッドか…うん…キューピッドねえ…。 よし!!これは伝えとかねーと! 俺だってバレンタインがあるんだよ! 井坂はパソコンのキーボードをフルスピードで叩くのだった。 他社との契約が終わり、帰社する電車の中。 朝比奈はスマホを見ながら首を捻っていた。 そこには井坂からパソコンで送られてきたメールに、ローマ神話の愛の神、キューピッドの必要性の説明が延々と書かれている。 朝比奈はハーッと深いため息を吐く。 そして自分のいない間、仕事以外何をしていたのかを白状させる算段を立てるのだった。

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