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第4話 猫と拳

 自転車のかごに入ったビニールの袋が風に煽られてシャカシャカと音を立てる。達也の家に着くと、ブレーキを踏んで自転車を脇に寄せた。 「気ぃ落とすなって達也。牛乳買えたじゃん」 「一番の目的は卵だったんだよぉ! 目の前で完売とかないわ……おばちゃん軍団こええよ……」  達也は肩を震わせてぐったりとしている。達也は度々セールと戦っているが、達也の日頃培われている無駄な圧力はセールを前にした母親達の前では意味をなさない。 「結局担任の話って何だったんだ?」 「ああ、進路だよ」  にゃー、と足元で鳴き声がして視線を向けると、野良猫が家の敷地内に入り込んでいた。  達也は目の色を輝かせて荷物を脇に置くと猫と戯れ出す。猫は何度か鳴いた後達也に近寄り、ごろごろと咽喉を鳴らせながら達也に素直に触られる。 「こないだの面談で就職希望って言ったんだけど、先生俺の成績なら大学も行けるのに勿体ないとか言い出してさ。もう熱く語られるもんだから時間食っちまったよ」  よりによって何で今日なんだろうなとスーパーでのショックを引きずっている達也に和希は眉を顰める。 「俺聞いてないんだけど。就職ってマジで言ってんの?」  達也との間では勿論将来の話をした事もある。  和希は美容師になりたいと言った。  そして達也は小学校の先生になりたいと言っていたのではなかったか。  達也は猫から手を離して和希を見上げる。立ち上がり、手を払ってそうだよと答えた。 「うちそんなに蓄えがある訳じゃないしさ、早く働きたいんだよな。工場とか老人介護とか、パンフレット見たけど案外面白そうだぜ?」 「良いのかよ。勉強してんのだって、大学を見据えてたからじゃねぇのかよ」  将来の夢なんてころころ変わるものだし、達也が就職したいと望むのならそうすればいいだろう。  けれど塾にも行かずに真面目に自分で勉強していたのは進学という選択肢があったからだと思っていた。  それに達也は何だかんだ子供好きだ。だから弟の友達にも優しい。 「おばさんには相談したのか?」  達也は首を横に振る。  空は次第に暗くなり影を伸ばす。夕焼けの赤に照らされて達也の金色の髪は橙に光っていた。 (まだ迷ってんじゃねえか)  きゅっと眉根を寄せる。 「大学行きたいなら行けば良いじゃん。よく分からんけど奨学金とかあるんだろ?」 「先生も言ってた。でも弟まだ小学生だしこれからもっと金掛かるだろ? 絶対先生になりたいって訳じゃねーし、それなら就職の方が都合が良いんだよ」  さらりとそう言ってのけるが、和希は達也のその言葉も諦めたような顔にも苛立ちが込み上がる。 (嘘つき)  親さえ騙せたとしても俺は騙されない。 「達也、俺がお前とどれだけ長く付き合ってきたと思ってんの? 自己犠牲も程々にしろよ」 「ぁあ?」  ぴしゃりと冷たく言い放たれた言葉に達也はぴくりと顔を顰める。 「何だよそれ。俺が決めた事にいちゃもんつける気? どうしたいかなんて俺の勝手だろ。変な事言うなよ」 「変な事言ってんのはお前だろ。弟理由にしてイイ子ちゃんぶんのやめろよ。本当は大学行きたい癖に、親と話し合いもしないで諦めてんじゃねぇ」 「――ッ和希!」  達也が拳を振り上げ、和希は反射的にそれを掌で受け止めた。  そしてとても滑らかな動きでカウンターを食らわせる。容赦のない和希の拳は達也の頬を打ちその身体はどさりと倒れる。猫は驚いてニャーと鳴きながら出て行った。 「すまんびっくりした」 「いや……うん、何て言うか俺もごめん」  達也は差し出された和希の手を取りよろよろと立ち上がる。頬は少し腫れていた。 「俺達子供ん時からここで育ってきたろ。高校卒業しても何だかんだずっとここにいるような気がしてたんだよな」  庭の縁側に座り、切り出された話に和希は首を傾げながら頷く。  達也は地元愛が強い。和希は達也とは違いここに固執している訳ではないが、達也との関係はこれまでと同じように続いていくような気がしていた。  和希は現状達也に今以上の何かを押しつけるつもりはない。だから、和希が変化を望まない限り達也が変わる事もまたないと思っていた。 「俺、進学するならこの町を出ていくかもしれない」  伏せられた睫毛の下で色素の薄い瞳に影が差す。  和希はその言葉をゆっくり飲み込み、数秒遅れて口を開いた。 「県外の大学に行くのか」 「分からねーけど、そういう可能性もあるって事」  正直、高校を卒業しても互いの拠点は変わらないと思っていた。達也が進学したとしても家から通える場所に進むのだろうと、何の疑問もなくそう思っていた。  だから驚く。 「何でだよ? だって、こっちも学校の一つや二つあるだろ。お前なら絶対家から通える範囲内で探すんだとばかり……」 「うん、俺も初めはそう思ってたんだけど。調べてたらな、県外でいくつか良さそうな大学見つけたんだ。これを機に家を出るのもありかななんて思ったりしてな。ま、進学したらの話なんだけどさ」  就職するならこっちが良いしここにいるかもしれないけどな、と達也はからりと笑う。 (達也が遠くに行く?)  ぞくりとした。  変わらないと思っていたのに、達也の事はすべて見通していると思っていたのに、全然そんな事はなかった。  家族が好き。地元が好き。そんなものは達也を縛り付けるものにはならない。  もう達也は一人でどこへでも行けてしまえるのだ。  人見知りで他に友達もいない、和希の傍を離れなかった子供の達也はもういない。  掴んでいたと思っていたその手がするりと離れて行くかのような感覚に虚しさを覚える。 (お前は俺がいなくても平気なのか)  情けない言葉が脳裏に浮かんで頭を振る。  そんな言葉は自分勝手だ。和希が言えた言葉ではない。  ブロロロ、と黄色の車が車庫へと入る。 「あら、達也に和希君おかえりなさい」  運転席から現れた達也の母は、柔らかく笑んで近づいて来る。  和希は薄く微笑み、ゆっくりと口を開く。 「おばさん、達也が進路の事で話があるって」 「え?」  きょとんとする母と目を見開かせた達也の視線が和希へと向けられる。 「和希」 「ちゃんと話し合えよ」  立ち上がり達也に背を向けて庭を出る。じゃあおばさんまたねと言って自転車を引いた。  自分でも馬鹿だなと思う。  口を突っ込まなければきっと達也は就職の道を選び少なくとも当分は隣人でいられただろう。  いくら達也を好きでも和希という人間はどこまでも利己主義だ。そこに相手への配慮はきっと欠如している。  だから和希はまるで達也の未来の為に背中を押したかのような自分の行動に心底驚いた。  翌朝、達也はすっきりとした顔をしてありがとうとぶっきら棒に和希に言った。  達也は進学をすると決めたらしい。どうやら母親も達也を大学に行かせるつもりだったらしく、迷う位なら行っておけと言われたそうだ。 「良かったじゃん」 「おう。お蔭で来年は受験生だ」  勉強頑張んなきゃなぁ、と達也はうーんと伸びをする。  これで良かったのだと思う。  なのに、胸の奥はどこか冷たく、ぽっかりと穴が空いたようだった。

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