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第4話
「困ったな。やっぱり、帰ろうかな……」
亘理は「黒木屋」からあのスーパーマーケットの方へ向かって歩き出そうとした。
だが、それは叶わないことだった。
「貴方は……!」
「え?」
そんな風に、言葉として発していたかは分からないが、亘理は呼ばれた方を振り返る。
亘理の大きめの目に映るのは鮮やかなゴールデンオレンジの派手な色だった。
「良かった。ショバ、分かったんですね」
「ショバ?」
「あ、いえ。何でもありません。珈琲でも入れますんで、そちらにおかけになって、少々、お待ちくださいませ」
「お、お構いなく……」
今日の黒木は鮮やかなゴールデンオレンジのシャツに、薄めのアズールブルーをしたペイズリーが映える深いクリーム色のパンツという出立ちだった。
その黒木に美容室を開いているという2階のフロアに通され、亘理は入口の横にあるソファに腰をかける。鮮やかなスカーレットを惹かれるアンティーク製のそれはかなり年季が入っている。ただ、ものが良さそうで、かつ、値段も良さそうだった。
というより、天井を陣取るように設置されたシーリングファン。亘理の座るソファから左手に20組はあるだろう様々な色や大きさをした珈琲カップにそれらが収納された箪笥。多分、カットやパーマ、カラーリングの道具が入っているだろうボックス。それらの家具と同色で誂えたであろうブラインドと重厚な扉。
それに、この目の前にある木製の深い味わいのあるテーブル1つとっても、この部屋にあるものは全て一級品のようだった。
「あ、あの椅子……」
亘理はかけていたアンティークのソファから腰を浮かせる。
その場から右手奥に、深いアイボリーのシャンプ台。その向かいにある髪をカットする時に客がかけるだろう1脚の美容椅子。
先程、座っていたソファと比べると、質の良い絨毯を触っているようなものではなく、見た目に反して弾力のある、淡いマルーンをした皮製のチェアだった。
おそらく、特注だろう、と亘理は見た。
まるで、マフィアのボスが座っている椅子を思って作られたようで、亘理が長年、通っていた理髪店にあるものにはない気高さとか孤高さとか……そういった類のものに満ちていた。
「すみません。豆を切らしたばかりで。今、急いで挽いて、あまり上手く挽けなかったのですが……」
黒木が1客の珈琲カップを乗せたプレートを持ってきた。
亘理は急いで、先程までかけていたソファへと戻る。プレートには銀色に光る壷形のシュガーポットと同色のミルクピッチャーもある。
「ありがとうございます」
砂糖はシュガースプーンで3杯分。珈琲スプーンでかき混ぜて、溶かす。
それから、細心の注意を払い、亘理の爪ほどに細い取っ手のミルクピッチャーを傾けると、砂糖と同じようにして珈琲スプーンを動かす。
「あ……美味しい」
珈琲は黒木が豆を挽いて、淹れたのだという。
本人曰く、あまり上手く挽けなかったらしいが、その粗めに挽かれた珈琲豆は幸いにも苦いのがあまり得意でない亘理でも飲みやすかった。
「ありがとうございます! 亘理さんにそう言っていただけると嬉しいです」
亘理という名前は黒木が名乗った時に気後れしながらも、亘理が名乗った。
しかし、亘理自身はあまり苗字で呼ばれる事はなく、くすぐったい感じがした。
それに、自分よりも年上の黒木に恭しく扱われる。最早、くすぐったいというのは通り越して、落ち着かない気持ちで亘理は戸惑っていた。
「あの……」
「何でしょう? 亘理さん」
「えーと……」
歯切れの悪い、濁った言葉しか出てこない亘理に対して、黒木は以前にも見せたようにまっすぐで、澄んだ目をしている。まるで、急かさずに、ボスの言葉を待っている舎弟か何かのように。
「えーと、やめないですか? 敬語とか。俺……いや、僕……貴方より確実に年下だし、金持ちって訳でもないし……あ、カットしてもらうぐらいは持ってますけど、えーと……。その……」
黒木が何も言わないので、亘理はしどろもどろになりながら、言葉を続ける。
こちらの言っている事を全く聞いてくれないというのも会話をする上で難しいが、相槌なり、何らかの反応なりがないと会話は難しい。途中から亘理はいつもの過ごしている部屋で、1人、話している気分になっていく。
だが、それは黒木の強い言葉で終わる。
「それはできません。自分は年上とか、金を持っているからとか、そんな理由で貴方を思っている訳ではないので」
「思う……」
黒木が発した言葉の一部分だけを亘理は繰り返す。
敢えて例えるなら、心臓が胸板を突き破って、揺さぶられるような衝撃が亘理を襲う。
どうして、こんな気持ちになるのかは分からなかったが、亘理は何とか、口を動かして、黒木へ意思を伝える。
「分かりました……」
何とか、声が震えないで、上手く言えた。
亘理はそんな事を思うと、珈琲を一口だけ咽喉へ追いやった。
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