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第20話

「で、ご用件は何でしょう?」  亘理はこの部屋に入り、随分と時間が経っているような気がしていた。  気がしていた。というのはあくまでそんな気がしているだけで、李の頼んだ食事がオーダーされて、円卓に並べられるまで30分ほどしか経っていない。さらに、その食事を平らげるまで30分かかっていた。  計60分間と1時間そこらしか経っていないのに、亘理にとっては5時間も6時間も経ってしまったような感覚に襲われる。  勿論、食事中にも亘理は本題に入ろうとしていたが 「……」  無言で交わされ、亘理も仕方なく沈黙に甘んじた。李の前にあった皿が回され、その上にあった小籠包と胡麻団子を滑らかな手触りが特徴的な箸で掴む。  亘理の思う通りに本題に入れたのは食事を終えた時。平らげた料理を作った一流シェフが特別にブレンドした温かいジャスミンティーを口に含んでからの事だった。 「さて、亘理君……」  李の重く、威厳のある口元が動く。  群青一色の表層に一柱の白龍が描かれた飲杯はガラス製の円卓にかちゃりと綺麗な音を立てて、李のかさかさとした指は組まれた。  ただ、それだけの事だった。  しかし、それだけの事が亘理を今まで、味わった事もない重みが空気中へと入り込み、亘理の皮膚へと沁み込んでいくようだった。 「私がユーを呼んだのは他でもない。黒木敬輔(けいすけ)を知っているね?」  黒木敬輔。  それはおそらく、黒木の事だろう。  苗字ではなく、名前を今まで、知らなかった事に亘理はまた複雑な思いがした。  状況が状況でなければ、亘理はきっと渇いたように笑い出していただろうと思う。 「まぁ良い。あれは私達の中ではちょっとした存在だ」 「ちょっとした存在……」 「ああ、カットにパーマ、挙句は死に化粧までやって退ける天才的な腕を持った美容師。うちの若いもんは洒落でピーター・へイニングのトッドって呼んでいるらしい」  そこまで、口にすると、李は組んでいた右手の人差し指の先端で左手の基節骨の辺りを撫でる。  多分、指輪などには興味がないのだろう。  李は上質のストールや上等な帽子といった小物は身につけはしていたが、ピアスやネックレスといった貴金属類のものは一切していなかった。もしかして、単に肌が弱いのかも知れないが、この人ならそんな理由で身につけない。というのは亘理には不自然な感じがした。 「ヨシノブが拾った時にはヤツにしか懐かない目つきの悪い餓鬼に過ぎなかったんだが……」  亘理は何かを言いかけて、その言葉を目の前にある飲杯に入った液体と同じように呑み込んだ。  それは一瞬だけ李の目が細められ、顔が少し優しく見えた気がしたからだ。ますます、訳が分からないと困惑する亘理に李は指弄りをやめて、飲杯を手にした。  そして、重い。しかし、それほど長くはない沈黙の果てで呟くように言われた意外な一言だった。 「あの気位の高い美容師も惚れた人間が絵に入ったとなれば、逆らえないだろうね」

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