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第30話

「黒木さん……」  文字にして黒木からメッセージは便箋1枚分といったところだった。  硬筆のように整った字ではなく、ハネやハライ、トメに若干癖のついた字だったが、おそらく、文面以上の気持ちが込められている事が分かる手紙だった。  亘理は内容を読み終えても、暫くは便箋を持ったまま、何もしなかった。その間に、亘理の頭にはある言葉が過ぎる。 「では、またここに来てはいただけないでしょうか」  それは亘理が2度目に黒木屋を訪れて、去る時に黒木から言われた亘理が決して断れない申し出だった。 「でも、もうここには来れない……」  意図して、口にしなかったその言葉は亘理の心へ響いて消えていくようだった。 「く、黒木さん……」  亘理は何とか、気持ちを落ち着けて、静かに隣の部屋へ繋がる扉を開いた。  その部屋は亘理が始めて通された黒木屋のサロンルームだった。  この部屋にある全てが一級の調度品。あの李と会った一室もそれなりの調度品があったが、それに比べると、さりげないというのだろうか。決して、華美ではないが、見ただけで良いものだと分かるものばかりだった。  それは今、黒木が横たわるアンティークのソファも違う事はなかった。 「寝てるのかな?」  黒木は規則正しく寝息を立てていた。  多分、気を失ってしまった亘理をここまで運んできて、亘理が帰るのに困らないよう動いてくれたのだろうと亘理は考えに至る。  少し眉間に力を入れて、眠りにつく彼は睫毛が長く、鼻も高い。男らしい美しさがあり、ただただ美しかった。 「ありがとうございました」  亘理はそっと呟くように黒木へ礼を告げる。  本当は他にも伝えたい事もあったが、眠っている黒木には届かない。それでも、亘理は良かったと思い、すっと出口の方へ足を進める。  距離にして亘理の足で3歩半といったところか。  しかし、その出口への扉が開かれる事はなかった。

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