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第31話

「亘理さんっ!」  扉の取っ手を掴み、押し開けるだけとなった亘理の細い右腕を誰かが制止している。  誰か……黒木以外にいなかった。 「く、黒木さん?」  亘理は黒木の方を振り返ろうとして、視線を右腕から僅かに左に逸らした。  あんな事があった今、どの面を下げて、黒木を見れば良いのだろうと思い、亘理は羞恥で体中が焼けていくようだった。  ただ、それは黒木も同じだったのだろう。  黒木も自分のした行動が信じられないと言わんばかりに掴んでいた亘理の腕を放した。 「すみません、お引き留めをするつもりでは……」  こんな時、どんな風に返事をすれば良いのだろうと亘理は思っていた。  この年になるまで彼女の1人も作った事のない。いや、童顔で背も低く、恋人の1人も作れなかった亘理には黒木と出会うきっかけとなったような揉め事の交渉はできても、自分の思いを伝える事はできなかった。 「こちらこそすみません。あんな事をさせてしまって……」  なるべく冷静に、なるべく穏便に。  亘理はそんな事を願いながら、黒木への謝罪にした。  声は震えていないが、心が震えてしまう。嫌な気持ちで溢れてしまってはいたが、嫌な気持ちを黒木へ零してしまわないように。  重ねてにはなるが、なるべく冷静に、なるべく穏便に謝罪した。 「いえ、元はと言えば、自分が招いてしまった事です。自分がハイ出しをかけられようが、タマをトルような事態になってでも良い。でも、貴方には! 貴方にだけはご迷惑をおかけする訳にはいかなかったのに……」 「ハイダ? タマをトル?」  亘理は時々、黒木や李の口からたまに出る用語が分からなく、いつも通りに繰り返してしまう。  そんな亘理に黒木も少しだけ気持ちをほぐせたのだろう。  黒木はやや力が入って、殺気立った言葉を柔らかいものにした。 「あ、いえ……こちらの事です。ドンにも言われた事がありますが、自分、口が悪くて、すみません」 「ドン……」  黒木がそのように呼ぶ人物は慶喜氏しかいない。  亘理は薬でまともな思考を奪われながらも、耳を傾けていた時の李の言葉を思い出す。 「が、ん……?」 「ああ、軽度の、な。当然、初期のもので治療する事もできたが、その時のヨシノブは珍しく拒否した。自分の髪を切るのも、抜くのもあれだけだとな。」  自分の命を永らえさせるよりも、黒木に髪を切らせ続ける事を選んだ男。  亘理は改めてそんな人間に自分は敵わないと思った。  しかし、黒木に頼まれると、亘理は断れなかった。それは黒木屋へ来店する事も黒木にパーマやカラーリングを任せる事も、だ。  それに今も……。 「亘理さん。少しだけお話があります。聞いていただけないでしょうか?」

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