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第32話

 新しい珈琲の香りがする。  亘理をいつものようにソファへもてなした後、黒木はプレートを持って現れた。  そのプレートには先程のようにシュガーポットとミルクピッチャーが乗せられていて、飾り気のない珈琲カップには珈琲が注がれている。 「インスタントで申し訳ありませんが……」  黒木の言うインスタントの珈琲は新しいものを淹れようとする彼に亘理が頼んだからだ。確かに、黒木の淹れてくれた珈琲は素人分りできるほどに美味い。  しかしながら、それ故に時間も手間もかかってしまい、亘理は今度こそ黒木の元を永遠に去らないといけなくなってしまうだろう。  黒木に引き留められた、僅かな時間。  そのように言い訳する事によって、亘理は何とかこの質の良いアンティークソファに座り続ける事ができるのだった。 「ありがとうございます」  亘理に礼を言われた黒木は椅子にかけるでもなく、珈琲プレートの置かれたテーブルを挟んで、亘理の向かいに立っている。  亘理は出された珈琲を砂糖も入れずに口をつけた。  本来、亘理は苦味や辛味といったものが苦手だった。案の定、亘理の口には安い珈琲の強すぎる酸味と苦味が広がる。ただ、今の彼は珈琲を甘くしようとか、珈琲自体を味わおうなんて思えなかったのかも知れない。 「亘理さん……」 「それで……お話とはなんでしょう」  できるだけ、和やかに話を促したい亘理の口元は相変わらず、重いものだった。  そんなぴりぴりとした空気の中、黒木は自分の心中を口にし始めた。 「亘理さん。自分は……いえ、俺は貴方がここに来てくれた時、とても嬉しかったんです」 「……」 「ずっと貴方が来てくれたら……だから、つい、また来てくださいなんてわがままを言ってしまった」 「……」 「本当はカットするなんて口実だったのかも知れません。俺が貴方に会いたかっただけ。貴方の髪に触りながら、いえ、貴方がここへ来てくれるのを待っている時から貴方のことで頭がいっぱいだった」 「……」  丁寧に、1つ、また1つと愛しむように黒木の言葉が、思いが紡がれていく。  その一方、亘理は何も口にする事なく、無意味に太腿へ力を入れて、ソファのスプリングへの負荷を抑えるしかできない。  亘理は情けないと思った。  そして、そんな情けなさに追い討ちをかけられるように黒木に呟かれた。 「俺は亘理さん……貴方をお慕いしているんです」

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