2 / 12

第2話

ある夜の話 「隣においで」のお題で書かせていただきました。スコット夫妻の話。 登場人物 ポール・スコット ニュー・スコットランドヤードの童顔刑事。34歳。ショーンと付き合い、結婚してから感情を素直に出すようになった。 ショーン・スコット ウエストミンスターにある病院の救急救命医。36歳。スポーツは観るのもやるのも大好き。 週末のソーホーのスポーツバーは、大盛況だった。プレミアリーグの人気チーム同士の試合中継を大型のスクリーンで放送していることも相まって、ポールが店に入った瞬間から、むっとした熱気が全身を囲い、ほろ酔いの客たちの歓声が頭の芯にまで響いた。 レズビアンの店主が切り盛りするこの店は、ウッディな内装に商業ビルの5階に入っているため、ソーホーの華やかな夜景を楽しめ、この辺りのスポーツバーでは1番人気があった。眼鏡越しに見る店内は、同性カップルだけでなく、男女の連れ合いや大学生くらいの女性、仕事終わりの会社員など、様々な客でひしめき合っている。この中からショーンを見つけるのは、いささか大変だと思いながら、店の入り口に立ったままダークグレーのウールパンツのポケットからスマートフォンを取り出し、彼に電話をかけようとした時、左の頬に急に冷たいものが当たり、ポールは思わず「ひゃっ」と声をあげた。 「あはは、驚かせちゃった?」 見れば、右手に黒ビールが注がれたグラスを持ち、いたずらっ子のように笑うショーンがいた。昼過ぎに仕事を終え、帰宅して昼寝をした後、この店でサッカーを観戦しようと家を出てきたらしい彼は、口の周りにうっすらと髭を生やしており、目の下のクマは幾分ましだ。ごめんね、と謝罪の言葉を口にし、自分が来店するのに合わせて買っておいてくれたのであろう右手のスタウトを差し出した。 「……びっくりした」 「うん、びっくりさせちゃった。仕事、お疲れ様」 「ありがとう、貴方も」 スタウトを受け取り、ショーンが左手に持っていたウイスキーグラス――おそらく中身はタラモア・デューと乾杯し、渇いた喉を潤す。その時、店内がどっと盛り上がった。スクリーンを見れば、臙脂色のユニフォームのチームのエース選手が相手のゴールネットを揺らし、同点に追いついていた。 「……盛り上がるな」 と言いながら、自分の口調はそれほど盛り上がっていないのが可笑しくて、ポールは淡く苦笑し、スタウトをもう一口飲んだ。夕方頃、スマートフォンのテキストチャットで、「明日は休みだし今夜のサッカーの試合、どこかのスポーツバーで観戦しない?」とショーンに誘われた際、一度は断ったものの、仕事を終えてショーンのいない自宅に帰り、しばらくぼうっとしていると、やはりと言うべきか次第に鬱々としてきた。今夜は飲んだり、サッカーを観戦したりする気分では到底なかったが、ひとりで家にいたくなくて、「今からそっちに行く」とチャットメッセージをショーンに送り、私服に着替えてこの店にきたのだった。 「後20分ほどで後半が終わるけど、このままだと引き分けかなぁ」 周りがどれだけ喧しくても、ショーンの声ははっきりと聞こえる。聞き慣れているからだろうか、不思議だと思いながらスクリーンをぼうっと眺めていると、おもむろにショーンの右腕が腰に回ってきた。「隣においで。もっとそばにいようよ」とさっきよりも明瞭な低音が鼓膜を震わせてくる。うんと答え、ポールはショーンの肩に頭を預け、拮抗する試合にぼんやりとした視線を注ぎ続けた。 5、6年前になるだろうか。ショーンと付き合い始めた頃、どこかの店でこうして腰を抱かれた際に、今まで感じたことのない面映さとそこはかとない居心地の悪さを感じたことを覚えている。 当時の自分は今以上に自信がなく、二枚目で社交的で誰からも好かれているショーンと不釣り合いな気がして、周囲の目が気になって仕方がなかった。どうしてこんな男がショーンの恋人なのかと非難じみた視線が向けられるのではないか。そんなことを考え、申し訳ないが彼の腕から逃れたくなる時もあった。 そんな頃もあったなと胸のうちで苦笑しながら、今のポールの心には安らぎが訪れていた。自分の居場所はここだと確信し、ショーンのがっしりとした体躯に身を委ねている。壁にもたれ、金曜日の夜を満喫している人々の喧騒を浴びながら、ゆっくりと酒を呷っていた。 「――仕事で何かあった?」 しばらくして、ショーンが穏やかな声で訊ねてくる。やはり表情に出てしまっていたかと決まりの悪さを感じながらも、ポールは唇を左右に広げた。 「サッカー観てるだろ?」 「それよりも、君が落ち込んでる方が気になるよ」 ショーンはさらに身を寄せてくる。シトラス系のトワレの香りが鼻孔をくすぐり、彼の息の音までも聞こえてくるようになった。「それとも、ここでは話したくない? ウチに帰る?」 「いいや、いい」 ポールは答え、それから長くて深いため息をついた。ショーンが与えてくれる安心感を、重苦しい感情が容赦なく蝕もうとしている。いや、既に蝕まれ、ボロボロになっていた。秋の並木道に敷き詰められる落葉のように、至るところに虫喰いの穴が空いているのだった。 「後輩が自殺した」 そのひと言を口にしただけで、頬のあたりが震え、体温が失われたような感覚に襲われ、胸のうちが寒々とした。ショーンは驚愕した表情を浮かべ、こちらを見ていた。 「今朝の話だ。後輩の住むフラットで銃声が聞こえて、管理人さんが後輩の部屋に入ると、右側頭部に銃弾を撃ち込んで絶命していたらしい。部屋の状態と、彼の直筆の遺書があったことから自殺でほぼ間違い」 知り得た情報を、淡々とした口調でショーンにだけ聞こえるように言いながらも、堪えきれず涙が流れた。「遺体は家族がすぐに引き取りにきた。明後日には、実家があるアクトンの教会で告別式だ。参列してくるよ」 「……自殺の理由は分かってるの?」 「……分からない」と鼻をすすりながら答える。「見つかった遺書にも家族への謝罪と感謝の言葉しか綴られていなかったって聞いてる。真面目だけど折り合いをつけるのは上手い奴だったし、思い詰めているようには見えなかった。仕事が原因なのか、プライベートで何かあったのか。正直、混乱してる……」 ポールは俯き、流れる涙をそのままにスタウトに口をつける。自殺した後輩は三年生で、彼が新人の頃に仕事を教えていたのが自分だった。必要以上に職場の人間と交際することがないポールにしては珍しく、彼とは何度か飲みに行き、仕事の悩みや愚痴を聞くなどして気にかけていた。昨日、職場の休憩室で世間話をしてきた時も変わらず元気だった。 あまりに突然のことで、ショックが大きかった。現実が受け止めきれず、けれども涙は次から次へと溢れてくる。ショーンが差し出してくれたハンカチで目元を拭い、何度か深呼吸をし、高ぶる感情を鎮めようと努めた。 「……まだ若くて未来があるのに、命を絶ってしまいたくなるほど苦しいことがあったのかも知れないと思うと、すごくやりきれなくてさ」 「うん……」 「気づいてやれなかったのが悔しくて……知ったところで何もできなかったかも知れない。けど、何も分からないままいなくなられたら……」 試合終了のホイッスルが鳴り響いた。結局、同点のままで決着はつかず、スクリーンに映る両チームの選手、監督、店内の客たちはやや白けた表情を浮かべていた。 腰にあったショーンの右手がポールの頭を撫でる。優しく、包み込むような手つきに、堰き止めた涙がまたこぼれだす。……こんなに人がいる場所で30代半ばの男がメソメソと泣くものではない。人々の目顔がスクリーンに向いているとは言え、非常にみっともないと思わないのか。やはりここで吐露する話ではなかったなと自戒しながらも、ポールはショーンの手のひらから流れ込んでくる静穏な愛情にすがり続けた。 自分にはショーンがいる。けれども死んだ彼には……どうだったのだろう。 誰かにとっての特別な存在であること、特別な存在がいること。そういったものが、自らの孤独を忘れさせてくれる。人生が多彩に色づく。自死の真相はもはや誰も分からないが、彼は密かに孤独を抱えて生きていたのだろう。 孤独は容易く人を殺す。ポールはそれを知っていた。だからこそ、この涙は彼への哀傷であり、自らへの怒りでもあり、戒めでもあった。自分だってモノクロの世界で独りで生きていた。彼のことを思うと、本当に悲しくて悔しくてたまらない……。 何とか涙を引っ込め、ハンカチをおろして顔を上げれば、曇った眼鏡の向こうでショーンは静かに微笑んでいた。……隣においでと腕を伸ばし、頭を撫でてくれる大切な人がいる。優越感などはない。尊びたいだけだ。ポールはショーンの右手を握る。スタウトもタラモア・デューもグラスに残ったままだったが、ここにはもういたくなかった。近くの返却口にグラスを置いて、ふたりはこの浮かれきった蒸し暑い空間を後にした。

ともだちにシェアしよう!