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第9話

6月30日ワンドロ 30分オーバー 「アイスコーヒー」 表の顔はウォール街の銀行員、裏の顔は金融業界の情報屋×FBIのホワイトカラー犯罪捜査官 ウォール街にある行きつけのカフェのテラス席は、お昼時を過ぎてもほとんど埋まっている。7割がスーツ姿、3割が私服。だいたいの人間がノートパソコンを開きながら、注文した飲み物を何気なく飲んでいた。 いつも座っている席が空いていなかったので、ガラス張りの店内に近い席に座り、目の前を通った店員にアイスコーヒーをふたつ注文した。いつも通りのオーダー。頼んだものが運ばれてきてから3分後、彼は今日も姿を見せるだろう。 リュウヘイ・タカハシは淡い曇り空を仰ぎながら欠伸を噛み殺し、脚を組んで周りの人声に耳を傾ける。ビジネスマン同士は、もっぱら株価や為替の話。証券マンと富裕層の顧客だと、これもやっぱり株の話。中年のご婦人同士は、旦那の愚痴ばかり言い合っていた。……今日も表層だけなら平和だなと思い、また欠伸をした。 若い店員がアイスコーヒーをふたつ持ってきた。軽く礼を言い、リュウヘイは自分の分のコーヒーにミルクを入れ、ひと口飲んだ。この店のコーヒーは、周囲の店に比べれば不味くはないが、美味くもない。今日のは少し酸味が強く、飲みにくかった。……あと、2分。 待ち人はこの街――いや、世界最大手の銀行に勤める若者だ。1年ほど前に、とあるツテで知り合った。 リュウヘイの職場は、ここから少し離れてはいるが、同じマンハッタンにある。ハーバードのロースクールを卒業してからずっと、FBIのニューヨークオフィスに勤務していた。 あと1分。今朝、ボスから命じられた任務を反芻する。今回のホシは、結構な大物だった。逮捕にこぎ着けることができれば、次のボーナスは相当期待できるだろう。 だが、相当厄介で根が深いヤマに違いなかった。なぜなら―― 「一気に暑くなったな」 物腰柔らかな低音が耳のなかに入ってくる。顔をあげると向かいに、かっちりとしたスーツを着た美丈夫が座っていた。 「毎年この時期から、こんなに暑かったっけな」 「今年は、異常気象らしい」 リュウヘイは静かに笑い、ストローを咥えた。向かいの若い男は、短めのブロンドヘアーを整髪料で清潔にまとめ、控えめなブルーのネクタイを締めている。典型的なバンカーの装いだった。 「今朝から大統領がSNSで怒り狂ってたけど、あの自動車メーカー、君のところがかなり融資してるんじゃなかったっけ?」 「あぁ。市場が開いた途端、株価が面白いくらいに下がって、融資担当が青ざめてたよ」 「可哀想に」 男は肩をすくめて笑った。 「次の大統領選であの男が落ちてくれれば、この街も少しは平和になるのかね」 「どうだろうな。……なぁ、シャロン」 リュウヘイは男――シャロン・ハートバレットの澄んだ碧眼を見据えた。「君はあの男をホワイトハウスから追い出したい?」 「えらく直球だな」 「悪いね、今日は時間がないんだ」 シャロンは残念そうに微笑み、ガムシロップもミルクも入れずにアイスコーヒーを吸った。彼のやや尖った唇は相変わらず妙に蠱惑的で、それでいて不敵さが滲んでいた。 「……何が知りたい?」 表向きは真面目で優秀な銀行員だが、リュウヘイを見つめ返す今の彼は、汚い金の臭いを嗅ぎつけるのを趣味とするイリーガルな情報屋だった。28歳と若いのに、その情報網と手腕は一流だ。彼と関わるようになってから、リュウヘイが所属する組織――ホワイトカラー犯罪対策本部の検挙率は上がり、局内で一目を置かれる存在となっていた。 「大統領の妹の旦那が何者か知ってるか?」 そう訊ねれば、シャロンは愉快げにまなじりを細めた。 「バカ校の社会科の試験問題みたいだ」 「そうだな。時間がないって言ってるわりに、くだらないことを訊いてしまった」 「そんなあんたが好きだよ」 「ナンパな奴。見た目とのギャップが激しすぎ」 リュウヘイの呆れ口調に、シャロンはますます愉しげに笑っていた。 「デビッド・ロジャー。ホワイトハウスの補佐官、元大手航空会社の経理部長」 「2年前にヴァージン諸島でペーパーカンパニーを設立したってのは本当か?」 その質問に、シャロンは3回まばたきをした。「イエス」という意味だ。 「半月前、とある保険会社が運用していた株が軒並み下がったのと関係がある?」 シャロンは三度しばたいた。やはりか、とため息が洩れた。 「株を一気に売った人物が、あまりにも多いんだ。まだ途中までしか捜査できてないけど、ロジャー補佐官と懇意にしている人間の仕業だと踏んでる」 「それが誰なのか、知りたいってわけか」 「あぁ」 リュウヘイが答えるとシャロンは少し考え込んだ。しばらくして伏せていた目をあげ、薄い唇を小さく動かした。 「……ロシアの資産家か」 彼の唇は、その名前を紡いでいたのだ。リュウヘイは思わず笑った。「大統領と犬猿の仲の」 「そう。でも、株の扱い方で右に出るものはいない」 「なるほどな。ということは、株で稼いだ金をペーパーカンパニーに移して、ロンダリングした上で懐にしまってるのか」 シャロンがお茶目にウインクした。ご明察とでも言いたいのだろう。リュウヘイは苦笑し、アイスコーヒーを半分飲んだところで口を開いた。 「タイムリミットだ、ごめん。でも助かったよ」 「それなら良かった」 シャロンは頬杖をついて唇を左右に広げる。かたちの良い双眸が、リュウヘイをじっと見つめていた。……有益な情報を得るには、その対価を支払うことがこの世界の大原則だ。情報には情報でもいい、金でもいい、女でもいい。シャロンの場合は―― 「明日の夜なら空いてるよ」 リュウヘイはイスから立ち上がり、三度目の欠伸をした。美味いコーヒーでなければ、眠気覚ましにはならなかった。「君はどう? 忙しい?」 「いや、空けておくよ」 シャロンは鼻歌を歌うように答えた。「久しぶりにあんたが作るドライ・マンハッタンが飲みたいからな」 「あぁ、そういやドライベルモットが切れてた。買っておくよ」 「頼む」 身体の奥がほのかに熱くなった。この美青年の場合、情報を渡した見返りとして、クイーンズ区にあるリュウヘイの自宅アパートで、カクテルを飲みながらリュウヘイの肉体を暴くのだ。リュウヘイが作った酒で喉の渇きを潤し、リュウヘイの身体で性欲を発散し、夜が明ける前に部屋から出て行く。それが常となっていた。 シャロンに意味深な笑みを向け、ふたり分のアイスコーヒー代をテーブルに置いてテラス席から離れていく。背中にじっとりとした視線を感じ、腰のあたりが甘く疼く。……特出した感情は互いに抱いていないが、肉体は相手を求めていた。明日の夜が待ち遠しい。酒と身体を差し出して、お釣りがもらえればラッキーなのだが、果たして彼はどうするか。考えるだけでスウィングするように胸が高鳴った。

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