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第10話

2018年10月6日、ワンドロ(30分以上オーバー) 「やけ酒」スコット夫妻 物音がして目が覚めた。今夜はまだ、ベッドにひとりだった。眠気で泥濘んだ頭をのっそりと起こし、ポールは上がらないまぶたをそのままに目を擦った。 その間も、ガタゴトとリビングから音が聞こえてくる。枕元のスマートフォンを起動すれば、時刻は夜明け前、午前4時過ぎだった。……随分と遅い帰宅だったなと、ぼんやりする頭で思いながら、スウェットのポケットにスマートフォンをしまい、ベッドから抜け出す。ベッドサイドに置いておいた眼鏡をかけ、寝室を出た。 リビングの革張りのソファーで、糸の切れた操り人形のように長い手足をだらりと投げ出して座し、天を仰いでいる夫の姿があった。眼前のガラスのローテーブルには、マッカランとグラスがひとつ。グラスはめいいっぱい琥珀色に染まっている。 人々がぽつり、ぽつりと目覚め始めるこの時間から飲酒など、随分と良いご身分なのかも知れない。ポールは静かに苦笑しながら、あぁ、昨日、もしくは今日、何かがあったのだろうと推し量った。おもむろにスリッパを履いた足をペタペタと鳴らし、彼のもとへと寄る。彼はぴくりとも反応しない。まさに糸なしでは舞えない人形だった。 「おかえり」 ポールはショーンのとなりに腰をおろした。ギッとソファーが軋んだ音を鳴らし、うっすらと昏い室内にいやに大きく響いた。「遅かったんだな」と言えば、数秒の間をおいて、深い深いため息が聞こえてくる。ショーンは左手で顔を覆い、それからまたため息をついた。 相当、参っているのが分かる。だから、やけ酒を呷ろうとウイスキーとグラスを用意し、その物音を聞きつけてポールは出てきた。足を組み、頬杖をついて、物言わぬ夫をやんわりと見つめる。 こういう時はこちらから、あれこれと言わない方がいい。ただひとつ、「何かあった?」とだけ訊いて、以降は黙る。自分は今朝から出勤だ。ローンを完済した愛車でウェストミンスターの職場まで向かわなければならないので、目の前のウイスキーは飲めない。 それを残念とは思わない。酒は仕事終わりかデートの最中、もしくはムシャクシャした時に飲むものだ。飲酒運転で身内に捕まり、人生を棒にふるために飲むものではなかった。 沼の底にいるような、昏く重い沈黙が続く。壁に掛けられた時計の針が、一切の乱れなく時を刻む音だけがする。時間が時間なので、外からは何の音も聞こえず、ただ物寂しく陰鬱な秋の気配が、壁を伝って室内に広がっていた。 数十秒、いや、数分が経過しただろう。 ショーンは三度目のため息と共に、こうべをだらりと前に垂らすと、「ごめんね」とぼそりと漏らした。 「何が?」 「こんな時間に帰ってきて、挙句、やけ酒を呷ろうとしてる」 「いつものことだろ」 ポールは淡く苦笑した。自分もそうだが、主に仕事で何かがあると必ずと言っていいほど酒に逃げる。飲んで、少しだけでも気を晴らそうとする。そうでないとやっていられないと言わんばかりに。 「また、助けられなかった」 普段の朗らかさはなりを潜め、陰鬱とした声でショーンは言った。 「火災現場で救助活動にあたってた消防士。燃え盛る家の中に取り残された幼子を救うために飛び込んでいったら、そのまま。同僚が救出した時には、子どもはもうダメだった。消防士の方は、ウチに運ばれてきた時は望みはあった。助けられると思った。けど……」 言葉は続かなかった。並々とグラスに注いだウイスキーを飲む。口の端から琥珀色の液体が垂れ、あごを伝った。それを気にすることもなく、ショーンはグラスから口を離し、ひたいに手を当てて悄然とかぶりを振った。その様を、ただ静謐にポールは見ていた。 救命医として働き10年以上になる夫は、急患患者の死に立ちあう度に、こうなる。人の死は、何度経験しても慣れるものではないし、慣れてはいけないというのが彼の持論だが、幼少期の凄惨な出来事が原点となっているのは間違いない。 彼の両親はIRAの爆弾テロで亡くなった。その現場に彼は居合わせ、親の死に目にあった。潰えてゆく大切な人の命を前に、何もできずにいた幼い自分を責め、その贖罪とばかりに医学の道を志し、そして医者になった。 だから、人命を救うために躍起になり、取りこぼせば落胆し悲しみに暮れる。誰よりも生に敏感で、執着し、尊ぶからこそ、苦しむ。優しく、あまりにも真っ直ぐなあまり、歪んでみえてしまう。 ショーン・スコットはそんな人間だった。 落ち込み、呻吟している時は、そっとしておいてほしい。そんな人間も中にはいるかも知れない。かつての自分がそうだった。いや、そうだと思い込んで、独りであることを肯定していたのかも知れない。 本当は、そんな時だからこそ誰かにそばにいてほしいのに。 自分もショーンも、そんな人間だった。 ショーンとはまだ恋人同士だった頃、たまたま彼の自宅に忘れ物を取りに行くと、彼はダイニングテーブルで安物のウイスキーをたらふく飲んで、廃人のように項垂れていた。 彼をハンサムで柔和で、いつでも余裕があって、穏やかに、けれども力強く自分を導いてくれる男だと思っていただけに、あまりの別人ぶりに驚き、戸惑ったのもつかの間、ポールはどこかほっとしたのを覚えている。 嫌な人間だと思われても仕方がないだろう。けれども弱さなど知らない、日向を歩んできた男だと思い、自分とは不釣り合いだと信じて疑わなかったのが、急に親近感がわいてしまったのだ。 この人も、己にしか分からない苦しみを抱いている。酒に逃げたくなるほどの悲しみを胸に刻んで、1日を終えようとしている。……僕だけじゃない。 当時、ポールはショーンの傍らに座り、彼の言葉を聞いた。 もう誰も死なせたくない。せめて、俺の目に映す人は、いかなる状態であれ救いたい。命を救うことに命をかけたい。それが実現できない理想だと分かっていても、俺は命と向き合いたい。 だけど、理想と現実との間で、擦り合わせができない。救えない命があると頭で理解しているはずなのに、割り切れない。 だからこうして、気が狂いそうになるのを抑えて、酒に呑まれて忘れそうとしてるんだ。 そう述懐し、泣き崩れる彼の手に自らの手を重ねた。そして、小さな子どもに聞かせるように言ったのだ。 「そう願って邁進して、壁にぶつかる貴方を強いとも弱いとも思わない。けど、決して貴方は間違ってない。貴方が信じる理想を、僕も信じる」 ……思えばあれは、呪いの言葉だったのかも知れない。 言いようによっては、ショーンをジレンマから救い出せただろうに、彼の願いや理想を肯定し、その背中を押したことで、その後も彼を何度となく呻吟させてきたのではないだろうか。 けれども、真摯に患者と向き合う彼を前に、救済となる偽りの言葉を口にしたくはなかった。彼の在り方を認め、同調したかった。……これがエゴなのか否か、判断のつかないところではあったが。 ショーンの手に自らの手をやんわりと乗せる。指の腹で手の甲を愛おしくさすり、沈鬱とした表情でウイスキーを嘗める彼に身を寄せる。 だから自分はいつでも、彼に寄り添っていたかった。理想を追い、疲れ果てて良かった彼を、少しでもぬくもりで包めたら。辛く、悲しい時を少しでも和らげることができるのなら、いくらでも。 ウイスキーを飲み干したショーンが、鼻を啜った。次いで、押し殺すような嗚咽が聞こえる。ポールは目を伏せると、重ねた手に指を絡めた。……貴方は何も間違っていない。そう思いながら、胸のうちがソファーのようにギッと軋んだのを感じたのだった。

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