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第一章 3
それから、小一時間ほど幸せをリーベ店内で噛み締めていた霧桐は、時計の針が午前五時を回った頃に漸く箒を拾い上げ、掃除用具入れに収めた。まだ、高揚した気分のまま店内の戸締りを終え、リーベから出る。
年の瀬の迫るこの時期は店内の空調が暖かいせいか、店から外に出るこの瞬間が霧桐は嫌いだったのだが、今日に限っては外の寒さすら気にならない。
鼻歌を小さく口ずさみながら、出入り口を施錠する。そうしてそのまま弾んだ足取りで、茶色い塗装の剥げかけた鉄製の外階段をカンカンッ、と小気味よく登っていくこと一階分。霧桐は、リーベの真上に存在する部屋の扉の鍵を開け入り込んだ。
霧桐が立つだけで一杯一杯な狭い玄関口で革靴を脱ぎ、マットも何も敷いていない床をぺたぺたと歩いて奥へと進む。と、そこにあったのは流し台に最低限の生活雑貨や洗濯機、冷蔵庫、ベッドといった物だけが置かれたガランとした部屋だった。
霧桐は部屋の暖房を入れ、温度設定値を二十六度にする。最近の家電は性能が良く、すぐに暖房からは温風が吹き出し室内を暖め始めた。
まだ、ふわふわと地に足が着いていないような心地がしている。霧桐は、カマーベストとロングエプロンだけ外し洋服掛けに掛けると、シャツのままベッドの上に転がった。
そうして、枕を逞しい腕でぎゅうっと抱きしめ、そのままベッドの上で身悶える。
「う、ああぁああああ~!!」
嬉しさのあまり、言葉にならない変な声が霧桐の喉から勝手に出てきた。腕が更にきつく枕を抱きしめあげる。折角の羽毛入りの枕だというのに、今にもはち切れて中身が出てしまいそうなほどに形が変わってしまっていた。
「明日から、愛沢さんと……うわぁ、どうしよう。やばい、顔がにやける!!」
ごろごろと霧桐が転げまわる度に、ベッドのスプリングが悲鳴を上げるように軋んだ音を立てた。が、それすらも今の霧桐には気にならないどころか、祝福の鐘の音の如く聞えているのだろう。
「明日から、尚吾さんって呼んでみようかなぁ……。ああ、でもお客さんもそう呼ぶ人いるし……尚さん、とか? ぅわ、照れる……」
そう言うわりに、霧桐は眠りにつくまで幾度となく尚さん、尚さん、と口の中で呟き続けたのだった。
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