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第一章 4
霧桐と愛沢の出会いは、およそ四ヶ月前。まだ夏も真っ盛りな季節の頃に遡る。
蝉の声が煩く、からりと晴れた空にはまるでわた飴のような厚い入道雲が浮かぶ。いっそ、それが本当に食べられればどれだけ空腹を満たすことが出来るだろうか。そんなことを考えながら、霧桐は薄暗い路地に蹲り疲れや汚れの浮いた顔を上げ、空を睨みつけていた。
かれこれ、最後にまともに食事をしたのは一週間以上前のことだ。すでに空腹の限界を超えた腹は、空いているのか空いていないのか分からなくなるほどに感覚が麻痺してしまっていた。
――な、んで……、こんなことに、……なったんだっけ?
暑さと空腹、栄養失調で朦朧とした頭で霧桐は考えた。
そもそもの始まりは、およそ一ヶ月半前のことだ。突如として、霧桐は仕事を失い。住む場所すら追い出されてしまったのだ。
もともと仕事には不満を持っていたから仕方がないとしても、住む場所まで追われる、という事態は霧桐も想像していなかった。
それでも、追い出された当初はどうにかなるだろう、と甘い考えでいた。
幸い、アパートを借りて一ヶ月ほど生活するくらいの所持金はある。バイトでもパートでも何でもいいから仕事に就いて、細々と生活していこう。そう考えていたのだ。
が、しかし、霧桐の考えているほど世間は甘くはなかった。
まず、アパートを借りるにあたって霧桐は不動産に足を運んだのだが、職業もなく、また住む場所もないといった霧桐を不動産の従業員は怪しんだ。
たまたまこの不動産がそうだっただけで他に何軒か回ればきっと一軒くらいは貸してくれるところがあるだろう、と踏んでいた霧桐だったのだが。結果は、何軒回ってみてもどこも“貸すことが出来ない”の一点張りだった。
では、仕事の方はというと、居酒屋をはじめ様々なバイトやパートの面接に行ってみたのだが、今年二十八を迎え前職以外に一切の経験がない霧桐に、どの居酒屋やどの会社も色よい返事をしてくれる筈もなかった。
それが何日も続くと、流石に打たれ強い方であると自負している霧桐でも凹むし、やる気を失くすのも仕方がないことだった。
面接を受けに行ったバイトの数がすでに両手の指の数では足りなくなり、霧桐自身の年齢を過ぎたあたりで、霧桐は諦めた。
自分が自分である限り平穏でささやかな生活すら望めないのだと、霧桐は気が付いたのだ。しかし、だからといって自ら死ぬ勇気もない霧桐には、所持金を出来るだけ減らさないように生活していくしか道はなかった。
勿論、住む場所は依然として見つからないままだから、夜は大半が公園のベンチや時には店の軒下を見つけて野宿するしかなかった。
昼間は昼間で茹だるような暑さから逃れるために極力涼しい木陰や建物の陰を探し、水を小まめに摂るようにしながら暑さが和らぐ夜までじっとしていた。
食べ物も、毎回コンビニで買っていたらすぐにお金が底を尽きてしまうので、水だけの時や草を食べたこともあった。
が、どれだけ遣わないようにしてみたところ収入がない以上、お金は減っていくばかりで。とうとう一週間前に霧桐の所持金は僅かな小銭を残すのみとなってしまったのだ。
霧桐は、骨張った大きな手を開いた。
そこには、十円玉が僅かに二枚と一円玉が三枚乗っていた。これが霧桐の全財産であるが、これっぽっちのお金で買えるものなど、まず無いに等しい。
――あぁ……、腹減ったな……。
もう、動くのはおろか口を開くのでさえ億劫だ。
霧桐は、視線を緩慢に空から地面へと移した。どれだけ睨み付けたところで、雲は所詮雲である。わた飴などになる筈もない。
――何か、……食べれそうな物……。
目だけをギョロつかせ、霧桐は辺りを見た。
暑さから逃れるために這うようにしてやってきたこの場所は、どうやら飲み屋街の一画の路地らしい。
霧桐の蹲る細い路地の上には、飲み屋帰りの客の嘔吐物や投げ捨てられたようなゴミ。雑然と積み上げられたビールケースなどが散乱していた。
どう見ても、食べられそうな物は一つもなかった。
この分ならば、人目が突き刺さるのが難点ではあるが公園にいた方がずっとよかったかもしれない。
そう思いながらも、霧桐はこの場から動けないでいた。既に体力すら底を尽き、歩くことはおろか立ち上がることすら出来なくなっていたのだ。
――このまま……、俺……死ぬのかな……。
そんな不吉な予感が、霧桐の頭の中を満たし始めていたその時だった。
『なぁ、……俺の所で働く気、ある?』
そう声を掛けてきたのが、愛沢尚吾だったのだ。
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