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第一章 5

 勿論、霧桐は、はじめのうちは愛沢の事を警戒していた。小汚い浮浪者そのものの霧桐の前にいきなり現れて、これまたいきなり『働く気はあるか?』と問うのだ。これを怪しまずに何を怪しめというのだろうか。  もしや、ろくでもないような仕事をさせる気ではなかろうか?  霧桐の頭の中に、そういった考えが浮かぶ。しかし、そう思うのも無理はなかった。  図体ばかりが大きい体はここ一ヵ月半ほどで急激に痩せたせいもあってごつごつと骨ばっていて、追い出された時から着ているTシャツやジーンズは、水洗いではどうしても汚れが落ちきれないために黒ずみ、あちこちほつれていた。その上、切ることもセットすることも出来ない茶髪はぼさぼさに伸び放題。日々の水洗いと日光によるダメージで傷み、艶も無くなってしまっていた。  元は端正だと言われていた相貌も、すっかりと頬が痩せこけ。剃ることが出来ずに伸びっぱなしの髭が顎にびっしりと生えているせいで、きつい印象になってしまっている。  そんな今の霧桐を見て、雇いたいと思う人間が、まずいるはずがない。  ますますもって目の前の男の事が怪しく思えた霧桐は、目を覆い隠してしまっている前髪の隙間から警戒するような視線で愛沢を見た。  真夏の炎天下の中だというのに、長袖の白シャツと黒のスラックスを身に纏ったその姿は、一見すると出勤途中のサラリーマンのようにも見える。が、真昼を過ぎた辺り――それも、夜の賑わいとはうって代わりガランとした飲み屋街に普通のサラリーマンがいるだろうか。  それに、整いすぎた彼の容姿が“サラリーマン”という単語と酷く不似合いで、違和感を覚えずにはいられない。  では、サラリーマンでなければ何なのだろうか?  そう考えたところ、霧桐の頭の中に浮かんできた選択肢はどれもろくなものではなかった。 『……犯罪に、なるようなことは……しない。他を、……当たれよ……』  久々に霧桐が発した声は、酷く掠れ聞き取りにくいことこの上なかった。しかし、彼は霧桐の声をきちんと聞き取れていたらしい。 『そんな危ない仕事じゃないよ。てか、俺、ヤクザとかじゃないし』  彼は綺麗な顔の片頬を歪めながら笑うと、そう否定した。霧桐は、彼のことをてっきり“ヤクザ”の上役か何かだろうと思っていたのだが、どうやら予想は外れていたようだ。しかも、冷たい見た目とは裏腹に彼は存外砕けた話し方をする。はっきりいって、容姿と口調があっていないのだが無駄に丁寧な話し方をされるよりも好感はもてる。 『……だったら、……アンタ、何者だよ……。俺みたいな、奴に、……なんで、話しかけてきたんだ?』  彼は霧桐の問いかけに、うーん、と唸った後、首を右に傾けた。 『さぁ、俺にも分かんない。けど、店の近くで蹲ってるし、汚れてるけど見た目は悪くなさそうだったから、声掛けたんじゃないかな?』  霧桐の耳には彼の言葉の語尾に疑問符がついているように聞こえたが、霧桐は目の前の男ではないのだし、分かるはずもない。  ――というか、店って……言った、よな?  霧桐の聞き間違いでなければ、彼は先ほど“店”と言っていた。が、緩慢な動作で霧桐は辺りを見るが、霧桐の居る路地には店の出入り口らしき扉の一つもない。あるのは地面に散らばったゴミと、大通りにほど近い路地の入り口部分にある塗装の剥げかけた鉄階段くらいだ。  店なんてないじゃないか、と文句を口にしようとした霧桐だったが、その声は目の前の男の手によって遮られてしまった。白く滑らかだがしっかりと男だとわかる骨ばった手が、男の“ほら”と言う声にあわせて、ある一点を指差した。  それは、あの鉄階段だった。

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