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第一章 6
『あの鉄階段を三階分上った所。ほら、チラッとオレンジっぽい看板が見えるでしょ?』
男の言った通り、目線だけで鉄階段を三階分上る。と、そこには看板かどうかまでは分からなかったが、確かにちらりとオレンジ色が見えた。しかし、それが本当に店かどうか、といったところまでは霧桐には判断がつかない。
――本当に、店……なのか?
声には出さないものの、霧桐は訝しげに男を見た。まさか、“店”といっているが、やはりヤクザが構える事務所ではなかろうか。そんな疑念すら浮かんでくる。
男が霧桐の顔を覗き込む。
『その眼、まだ疑ってるって感じだね。まあ、こんな格好だから仕方が無い、か。でも、ほんとそんな危ないのじゃないから、安心してついてきなよ。店の中、見たら違うって分かるからさ』
さあ、と急かすように腕を引かれる。けれども、まだ納得の出来ていない霧桐は頑なとしてその場から動こうとしない。
元が百八十を超える長身に筋肉質な体型をしていたため、ここ一ヶ月半ほどで十キロほど痩せたといっても目の前の男が霧桐を無理矢理立ち上がらせる事は無理に等しい。僅かに腰が浮いたが、それだけだった。
渋る霧桐に向かって男が口を開く。
『どうせ、行く所無いんでしょ?』
きっぱりと、オブラートに包むこともせずにそう言われ、霧桐の喉からグッ、と何かを詰まらせたような音が聞えた。
『そ、れは……そう、だけど……』
認めるのは非常に癪であるが、男の言う通りだ。そもそも、帰ることの出来る場所があるのならば、霧桐とてとっくの昔にそうしている。
『なら、決まり。ほら、立ってよ』
唇にゆるく弧を描いた男は、一方的にそう決めてしまい再び霧桐の腕を引いた。霧桐も、男の話を聞かない様子としつこさに負けたのか、力の入らない身体でどうにか立ち上がる。そうして男に身体を支えてもらいながら、ふらふらとした危なっかしい足取りではあるがゆっくりと歩き始めた。
『まずは、そのぼさぼさの頭と格好をどうにかしないと』
ゆったりと歩く霧桐の腕を肩にまわした状態で隣で支える男が、相変わらず綺麗な笑みを浮かべながら言った。
『……いや、でも……そこまで、してもらう義理は――――』
『俺、前々から番犬欲しかったんだよ。ガタイが良くて強そうなの』
出会って数分ほどしか経っていないが、霧桐の隣の男がつくづく人の話を聞かない人物であることはよく分かった。それともう一つ。
――つまりは、……俺は、番犬代わり……って、わけか……。
『君は店の番犬と雑用をする。で、その対価として俺が君に賃金と住む場所を提供する。これなら引き受けてくれるよね?』
男の薄い唇がクッ、とつり上がる。人の話を聞かないわりに、鋭く、そしてさとく賢しい男だ。どう言えば霧桐が断らないか分かっていてああ言ったのだろう。
『……分かりました、……引き受けます……』
そう口にした霧桐は完敗したような気分を味わっていた。が、決してそれが不快ではなかった。
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