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第一章 7

 ゆるゆると微睡みの淵から意識が浮上する。窓の一つもないせいで室内はまだ薄暗いのだが、霧桐の体内時計の具合からするに、恐らく今は正午を少し過ぎた辺りだろうと見当がついた。  “リーべ”の営業時間は午後六時半からで、まだ起きるには早すぎる。普段の霧桐ならば、ぎりぎりまで睡眠をとり、昼食とも夕食ともつかない簡単な食事をコンビニで買い溜めしている冷凍食品で済ませるのだが。今日に限っては、気が高ぶってしまっていて再び寝付けそうにない。  ――早いけど、起きるか。  たまには、こんな日があってもいいかもしれない。そんなふうに思いながら、霧桐は瞼を持ち上げ。そうして、のっそりとベッドから起き上がった。  枕脇に放った携帯を確認すると霧桐の読み通り。ディスプレイには12:10と示されていた。  ふぁ、と欠伸を一つこぼし、霧桐は大きな掌で項にかからない程度に切られた茶髪を乱暴に掻き混ぜる。  髪も、服も、携帯も。全てあの後、愛沢が切り揃えてくれたり、買い与えてくれた物だ。勿論、この部屋とて例外ではない。元々は、物置や愛沢が自宅に帰るのが面倒な時に寝泊まりするスペースとして借り上げていたらしいそれを、愛沢は何の躊躇いもなく霧桐へと貸してくれたのだ。  ――ほんと、愛沢さんと出会ってなかったら死んでたよな……。  さきほどまで見ていた夢を引きずっているのか、霧桐は過去をぼんやりと思い返しながら立ち上がる。そうして、皺が寄ってヨレヨレになってしまっているシャツを脱ぎ捨てた。  三ヶ月前まではすっかりと痩せこけてあばら骨が浮いてしまっていたが、愛沢がたらふく食べさせてくれるのと、日々鍛えているお蔭で体型はすっかりと元通りになっていた。くっきりと六つに割れた腹筋に、厚い胸板。そこに息づくのは和彫りの猛々しい一匹の虎だ。己の強さを誇示するように天に向かって吠えたてる姿が、右脇腹から右胸の上に彫られていた。しかし、それだけではない。  露になった霧桐の背中には、見ている人間に対して今にも飛び掛からんばかりの迫力の虎が色鮮やかな赤い梅の花と共に、臀部から肩甲骨辺り――つまりは、背面一杯に彫られていた。  それらが、霧桐が動く度に筋肉が隆起し、まるで本当に息づいているかのように見える。  痛い思いをしてまでわざわざ彫ったのだ。彫った当初は、この和彫りのことを誇らしく思っていた霧桐であったが、今の霧桐にとって背中と脇腹の二匹の虎は正直厄介物でしかない。  ――こんなことになるって分かってたら、入れなかったんだけどな……。  霧桐は脇腹にふてぶてしく居座る虎を、不愉快そうに見下ろした。この二匹のせいで、愛沢との温泉旅行も夢のまた夢である。  ――まぁ、唯一の救いは愛沢さんがあんまり気にしてないってことくらいか……。  和彫りの隆盛を極めた江戸時代ならばまだしも、昨今和彫りにはあまりいいイメージを持たない者が殆んどである。愛沢が与えてくれた服に着替える際に、うっかりこの和彫りを晒してしまった霧桐は追い出されることを覚悟していた。  しかし、愛沢は霧桐の予想に反して『へぇ、渋いね』と一言だけ感想を漏らしただけで。それ以上霧桐を追及することはしなかった。霧桐にとって追及されても答えられないことばかりなので、必要以上に干渉しない愛沢の態度は正直言ってありがたかった。

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