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第一章 8

 半裸に黒のスラックスだけの格好のまま、霧桐は炊事場へと向かう。生活感のあまり無い部屋には不釣り合いな大きめのキッチンには流し台が二つあり、霧桐はそのうちの一つの蛇口を捻って水を出すと、深めのシンクの中に頭を突っ込んだ。  流れ出る冷たい水が髪や顔を濡らし、ぼたぼたと落ちては排水溝へと流れていく。起き抜けで僅かばかり残っていた眠気も一緒に洗い流した霧桐は、シンクから頭を上げる。そうして、水滴が床に落ちるのも気にせず、まるで犬が水気を飛ばすかのようにブルリ、と頭を振った。  本当は、しっかりタオルで拭いた方がいいのだろうが、タオルを取りに行くのが面倒だ。それに、暑い位に空調がきいているのもあって、少しくらい濡れていても気にならないどころか。その方が、霧桐には心地よかった。  そのまま髪から水滴を滴らせながら、冷凍庫の扉を開けて中を覗き込む。 「あちゃー、冷食切らしてるし……」  冷凍庫の中には、氷の入った袋が三つと食べかけのバニラアイスが入っているだけで、ほぼ空に等しい。冷蔵庫の方も開けてみた霧桐であったが、ミネラルウォーターのペットボトルがあるだけで食べられそうな物は何一つなかった。  そういえば、昨日買出しに行こうと思っていたのだが、結局行かずじまいのままだったのを思い出して、霧桐はハァ、と大きく溜息を吐いた。すっかり食べる気満々であった霧桐の腹がくぅ、と情けない音を立てる。 「あー、面倒だけど買いに行くか……」  霧桐はくうくう鳴り続ける腹を掌で擦りながら、ぺたぺたとフローリングの床を素足で歩く。そうして洋服掛けに何着もハンガーで吊るしているシャツを一着手に取ったところで、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。  勿論、通販やネットショッピングなどしない霧桐だから、尋ねてくる人間など愛沢一人しかいない。  霧桐は素肌にシャツを引っ掛けだけの格好で、玄関へと向かった。鍵を開けると、ノブがひとりでに回りガチャリ、と音を立てて鉄製の扉が開く。 「おはよ、唯ちゃん」  そう言って現れたのは、やはり愛沢だった。黒いコートに首元には紺のマフラーを巻いていて、右手には沢山食材の詰まったビニール袋を提げていた。 「どっか出掛けるつもりだった?」  愛沢がきっちり後ろに撫で付けた黒髪の上とコートの肩の部分に付着した溶けかけの雪を払いながら、訊ねてくる。霧桐は愛沢から見るからに重たそうなビニール袋を受け取りながら、「はい。冷食を買い溜めとこうかなぁ、って」と答えた。 「なら、丁度よかった。唯ちゃん、放っておくと冷食漬けだし」 「すみません。俺が料理出来ないばっかりに……」  霧桐は自身の料理の腕前を思い出し、シュンと項垂れる。生まれてこのかた料理など一度もしたことがなかった霧桐は、この部屋に住むようになってから自炊というものに挑戦してみたのだが――結果は惨敗だった。  たしかにレシピの本通りに作ったはずであるのに、何故か出来上がったのは目に染みるような悪臭と煙を吐き出す真っ黒な塊だったのだ。  それから何度か挑戦してみたものの、結果はいずれも同じ。毎回出来上がるのは真っ黒な塊で。霧桐は、自身には自炊は無理だと悟ったのだった。  幸い、今は手軽に買える冷凍食品なるものがスーパーやコンビニに沢山ある。種類も豊富でレンジで温めるだけで美味しいとくれば、霧桐がそれを活用しないはずもなかった。

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