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第一章 10

 愛沢が玉葱や挽き肉、人参といった具材を炒め始めたのだ。  霧桐がすんすん、と鼻を鳴らして香ばしい匂いを肺一杯に吸い込んでいると、チラリと愛沢が視線を持ち上げるのが見えた。 「唯ちゃん、そろそろ皿出しといて」 「わかりましたっ!!」  愛沢の指示に霧桐は弾かれたように立ち上がり、部屋の隅に置かれている小さな木棚の側へと歩いていく。この木棚も、霧桐がここに住むとなった際に愛沢が買ってくれたものだ。  こ洒落た蒲萄のモチーフが描かれた鉄製の取っ手を慎重に握り、扉を開く。と、そこには僅かに四、五枚だが品のいい白い陶器の皿が収納されていた。  霧桐としては、正直いって皿や木棚などではなく紙皿や段ボールなどでよかったのだが、これについては愛沢が『あった方が便利だから』と譲らず。強引に購入を決めてしまったのだ。  更に霧桐にとって不運なのは、愛沢が凝り性であったことだ。  霧桐には真っ白なただの皿にしか見えないのだが、その値段は皿一枚につき諭吉が約一人分飛んでいくほど高額で。毎回使用する度に、ヒヤヒヤした気持ちを味わわせられる。  霧桐は、恐る恐る。慎重な手付きで皿を二枚取り出し、愛沢の元へと持って行った。 「そこ、置いて」  愛沢が“そこ”とコンロ近くの調理台の上に顎をしゃくった。愛沢の手元ではボウルの中に割り入れられた卵が、愛沢が手に持つ菜箸によってカシャカシャとリズムよく掻き混ぜられているところだった。  霧桐は愛沢の指示通り、調理台の上に皿を二枚置く 「他に手伝うこと、あります?」 「机出しといて。あとフォークも」  はいっ、と元気よく返事をして、霧桐は直ぐ様言われた通り折り畳みのローテーブルをベッドの下から引っ張りだす。脚を立て、組み立ててから表面を除菌シートで拭いた。そうして、キッチンにある竹を使った箸立てからフォークを二本引き抜いてテーブルの上に置いた。  用意が終わった霧桐はテーブルの前で正座をしつつ、そわそわと落ち着きなく愛沢を待つ。  と、ほどなくして愛沢が黄色くふんわりと焼き上がったオムレツが乗る皿を二枚手にして霧桐の元へとやって来た。 「お待たせ。チーズはいつものように二枚入れたから」  そう言って、愛沢が霧桐の方へ右手に持っていた皿を差し出した。  皿の中央に置かれたオムレツからは湯気が立ち昇り、中に入っている挽き肉や玉葱の香りが霧桐の空腹を刺激する。  愛沢が霧桐の真向かいに腰を落ち着けるのを見て、霧桐は両手を合わせるのもそこそこに、いただきます、とオムレツにフォークを差し入れた。  ふわふわの卵にすんなりとフォークが沈む。一口大よりも僅かに大きく掬い取ると、中に入れられていたチーズがトロリと溶け出して糸を引いた。  この光景が霧桐は堪らなく好きだ。同じ空間に好きな人がいて、その彼が作ってくれた美味しい料理が目の前にある。そんな状況では、頬が緩み鼻の下が伸びるのも仕方がない。  霧桐はまだ熱々のソレを、にまにまと笑みを浮かべながら頬張った。 「熱っ、はふっ……でも、美味いっ」 「そう、それならよかったけど。……顔がだらしなく緩んでるから、どうにかした方がいいよ」  オムレツにがっつく霧桐の真向かいでは、愛沢が淡々と自分の分のオムレツを口に運びながら霧桐を諌める。 「え、俺……そんなに顔緩んでました?」  オムレツを掬う手を止めて、霧桐が訊ねた。その真向かいの愛沢は一口大にオムレツを切り分けながら、うん、と頷く。 「店に出る前までには、きちんとしておいてよ。唯ちゃん目当てで来る女性客、少なくないんだからさ」  元から愛沢目当てで来店する女性客が多くはあった。が、霧桐が店に出るようになってからというもの、前にもまして女性客が増えたのは事実だった。  女性客が言うには、『愛沢さんとはまた違った魅力があるんだよね。なんていうか……そう、ワイルド系なの!!』とのことらしい。  常連客の一人である由美さんに言われた言葉を思い出した霧桐は、そんなものなのだろうか、と他人事のような感想を抱きながら残り三分の一ほどになったオムレツを口の中に掻き込んだ。  綺麗に空になった皿をテーブルの上に置き、手を合わせたところで「唯ちゃん」と愛沢に声を掛けられる。 「口許、卵の黄身付いてる」 「え? 何処ですか?」  霧桐は口許を手の甲でごしごしと擦ってみたのだが、まったく見当違いの場所ばかり擦っているらしく、愛沢が微苦笑を浮かべていた。 「まったく違うところばかり擦ってどうすんの。ほら、ここ」  そう言った愛沢の指が、霧桐の方へと伸びる。そうして、霧桐の口の右下辺りを霧桐とは少し違う滑らかな皮膚の感触が擽っていく。しかし、それだけで終わりではなかった。  あろうことか、愛沢が霧桐の口許を拭ったその指を咥内から覗かせた赤い舌でペロリ、と嘗めたのだ。

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