11 / 18

第一章 11

「あ、愛沢さんっ!?」  一拍遅れてその事実に気が付いた霧桐は、素っ頓狂な声を上げながらその場で体を仰け反らせた。霧桐の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。 「唯ちゃん、反応が純情すぎ。童貞でもないんでしょ? これくらいで動揺してたら、セックスなんて出来ないって」  クツクツ、と愛沢が喉を鳴らして笑う。  霧桐は愛沢が口にした直接的な言葉に、また顔を赤く染めた。  確かに、童貞ではない。それに、実際に男性との経験はないが、知識として男性との性交をどうすればよいか、くらいは霧桐とて知っている。  しかし、“知っている”のと“実際にする”のではだいぶん違う。それが想い人である愛沢が相手となれば、たかだか皮膚が接触した程度であるが過剰に反応してしまうのも仕方がないことだった。 「……っ、愛沢さんが、その顔でそういうこと言うのが、心臓に悪いだけです」  霧桐は拗ねたようにそう言って、ふいっと顔を背けた。が、耳まで赤く染まっていることから、それが照れ隠しであることは愛沢にも分かってしまっているだろう。  案の定、霧桐が横目で確認した愛沢は左の口角を微かに持ち上げていた。 「唯ちゃんが俺にどういったイメージ持ってるかは知らないけど、俺こういう話わりとする方だし」  愛沢が淡々と告げて、愛沢の分のオムレツの最後の一欠けらを口の中に放り込む。そうして数回咀嚼して飲み込むと、ご馳走様、と小さく呟いて手を合わせた。  赤い顔を隠すのを諦めた霧桐は、ぴんと指先まで真っ直ぐ綺麗に伸びた愛沢の手を見ながら、それは知ってますけど……、と口を開いた。 「……その、やっぱり愛沢さん黙ってると真面目に見えるから。なんか、そういう話興味なさそうっていうか……」  しどろもどろに霧桐が言うと、愛沢の真っ黒な瞳が霧桐を見た。僅かに口元に浮かんでいた笑みすら消えた無機質なその表情に、霧桐の心臓がドクリと音を立てた。  ――また、あの顔だ……。  店に立っている間は穏やかに、あるいは艶やかに笑む人ではあるが、店が終わった後や霧桐の前で愛沢は不意に表情を消す。初めてそれを目にした時は、疲れているからだろう、と思っていたのだが。どうやらそれが違うようだと気がついたのは、愛沢が霧桐の所に訪れて頻繁に料理を振舞うようになって一週間ほど経った頃だった。  その日も、こういった話をしていたような気がするが、何が愛沢の表情を消してしまうきっかけになったのか霧桐には分からない。 「真面目、ね。騙されてるね、それ」  愛沢の皮肉ったような呟きが霧桐の耳に届いた。目の前の愛沢は、もう無表情ではなく唇に緩やかな弧を描いていた。その表情で、先ほどの言葉が誰に対しての皮肉なのか、霧桐にはすぐに理解が出来た。 「……真面目なのは、見た目と仕事の腕だけなのはもう知ってます」 「そっか。なら、大丈夫だね」  何が彼のツボに入ったのかは分からないが、クスクスと笑い声をたてる愛沢を置いて霧桐は立ち上がる。そうして、自分の分と愛沢の分の空になった皿を回収し流し台へと運んだ。  シンクの中に一旦皿を置いた霧桐は、スポンジを手に取り“油汚れもよく落ちる!!”とパッケージに大きく書かれた食器用洗剤を少量含ませ、泡を立てる。  別に二人で話し合って決めた訳ではない。が、こうして食事終わりの食器の後片付けは、気がつけば霧桐の役割となっていた。  皿が高価である、という一点を除けば店でやっている霧桐の仕事と何ら変わりはない上に、霧桐はこういった単純作業が嫌いではない。  鼻唄を歌いながらスポンジを掌で数回揉む。と、すぐにモコモコと真っ白な泡が立ち、霧桐の大きな手を覆ってしまう。 「このあと、どうします?」  霧桐は皿の表面をスポンジで撫でるように洗いながら、テーブルの上を除菌シートで拭く愛沢に声を掛けた。  恋人になる昨日までは、こうやって二人で食事をした後は、早めに店に行き愛沢が霧桐にカクテルの作り方やシェーカーの振り方を指導したり。或いは、愛沢の買い物に荷物持ちとして同行したり、各自別々に行動したりとしていたのだが。昨晩――いや、時間帯としては今朝方、晴れて恋人同士となったのだ。  霧桐が、甘やかな出来事を期待しても別段おかしな事ではなかった。  泡まみれになった皿を水ですすいでしまおうと霧桐がスポンジを置き、蛇口に手を伸ばしたところでいつの間にか霧桐の隣に立っていた愛沢に耳元で囁かれる。 「どうするって……、もしかしなくても、唯ちゃん期待してる?」  吐息と共に耳朶に吹き込まれるその一言に、霧桐はギクリ、と身を強張らせた。図星をさされたことに動揺して手を滑らせ、皿を危うく取り落としそうになる。  間近に感じる愛沢の気配と、霧桐の手の中にある皿。二重の要因でドキドキと鼓動が速くなった。 「うっ、いや……その……」  霧桐は煮え切らない返事をモゴモゴと口にして、手元に視線を落とした。その顔は端からみても真っ赤に染まっていて、皿洗いに集中することでなんとか平静を保とうとしているのが丸分かりだった。  勿論、間近で霧桐を見ていた愛沢がそれに気がつかないはずもない。 「ふぅん、別にいいよ。これからしようか」  艶のある声が聞こえ、霧桐の右脇腹の虎を愛沢の手がするりと撫でた。  そういえば、着替えの途中のまま。シャツを引っ掛けただけの格好であったことを、霧桐は今になって思い出した。

ともだちにシェアしよう!