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第一章 12

 剥き出しの霧桐の腹部を、愛沢がするすると撫で上げる。筋肉の溝に沿うように指先が腹から胸へと移動して、大口を開け吠え立てる虎の喉元を擽った。  愛沢の突拍子もない行動に困惑していた霧桐だったが、そこでようやく我に返ったようで。皿をシンクの中に置くと、泡まみれの手もそのままに慌てた様子で愛沢から距離をとった。 「あ、愛沢さんっ!? い、いきなり何するんですかっ!!」  茹で蛸のように顔を赤く染め大声を出す霧桐に、愛沢はあっけらかんとして答える。 「何って、セックスだけど?」  何を言っているんだ、といわんばかりの愛沢の堂々とした態度に、霧桐は自分の方がおかしいのではないかと不安になる。が、この場合どう考えても常識的なのは霧桐の方だろう。  霧桐は泡だらけの手が使えないので、右腕で赤いままの顔を隠した。 「な、何で急にっ……」  モゴモゴと小さな声で訊ねると、愛沢が不思議そうな表情を浮かべて首を左に傾げた。 「何? 違った?」  逆にそう訊ねられて、霧桐はうっ、と言葉を詰まらせる。いきなりで驚いただけであって、内心は愛沢との接触に悦んでいる自分がいたからだ。  うぅ、と暫し呻いていた霧桐であったが、目の前の愛沢の視線に負けたのか。観念したとばかりに肩を落としてぼそぼそと話し始めた。 「いや、その……まったく違う訳じゃないんですけど……。いきなり、せ、セックス……するんじゃなくて……。そこまでいく過程を楽しみたいと言いますか……」  霧桐はしどろもどろながらになんとか説明して、愛沢を窺い見る。と、愛沢が理解が出来ないとでも言いたげに柳眉をひそめ、霧桐を見返していた。 「……結局するなら、今したって変わらないと思うけど?」  確かに、愛沢が言うことも確かなのだが。霧桐は、体が目当てで愛沢に惹かれた訳ではない。冷たく突き放した物言いをするけれど、何だかんだと世話を焼いてくれる愛沢のその優しさに惹かれたのだ。  女性男性共にそういった噂の絶えない愛沢相手だからこそ、安易に肉体関係に及んでしまうことは霧桐としては避けたかった。 「いや……まぁ、そうなんですけど……。折角恋人になったんですし、その……もうちょっと、いちゃいちゃとかしたいなぁ……なんて……」  昨夜よりずっと前から何度もシミュレートしてきた理想、というよりも霧桐の妄想を口にする。  愛沢に何かしらの反応を期待していた霧桐であったが、返ってきたのは「ふぅん」といった気のない愛沢の声だった。 「で? 結局、しないの?」  つまらなさそうな表情で訊ねてきた愛沢に、霧桐は頷きを返す。 「えっと、その……愛沢がしたいと思ってくれたのは嬉しいですが、今日は――」  と、そこまで言ったところで霧桐の声が不意に途切れた。霧桐の目線の先、愛沢が床に放っていたコートのポケットからスマホを取り出し、画面に触れていたからだ。 「愛沢さん……何してるんですか?」 「何って、電話だけど」  何を当たり前の事を訊いているんだ、とでも言わんばかりの愛沢の呆れ声が返ってきて、霧桐は僅かにたじろいだ。  霧桐が訊きたかったのは、そんなことではない。一体何故それを今する必要があるのか、という点だった。  ――今日の在庫の補充のための電話、なのか?  大抵酒類が切れた際に、懇意にしている酒屋に補充の分の配送を頼むのは愛沢の役割だった。  と、いうのも、以前霧桐が愛沢の代わりにそれをした事があるのだが、その日届いた酒やリキュールは在庫を切らしているものとはまったく別の物だった、ということがあったのだ。それ以来、愛沢は霧桐に代わりを頼むことは無くなった。  確かにここのところ客も多かったし、足りなくなっている物も幾つかあるかもしれない。が、しかし、開店時間まではあと六時間ほどあるのだ。懇意にしている酒屋はここから三十分ほど車を走らせたところにあるが、開店一、二時間前までに頼めば十分に間に合う。つまり、今それをしなければならない理由は別段存在しないのだ。 「……清住(きよすみ)、ですか?」  清住とは、“(なら)酒屋”の跡取り息子で、“リーべ”にもよく配送にきてくれる気のいい青年だ。  高校、大学ともにラグビーをしていたというその体は大柄で筋肉質ではあるが、短く切り揃えた黒髪にいつもにこやかな笑みを浮かべているのもあって人好きのする印象で。霧桐と歳が近いというのもあり、よく喋ったり、たまに休みの日に一緒に遊びに出掛けるような気安い関係でもあった。  霧桐の口から清住の名前を聞いた愛沢が、不思議そうな表情を浮かべる。  どうやら霧桐の読みは外れたようだった。

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