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第9話

「……とはいえ、俺はキッチンとホールメインだからカクテル作れないんだ。マスター呼ぶから少し待っててくれる?」 濡れ鼠の男が入店する少し前に「暇だからご飯食べる」とバックヤードに消えたマスター。 賄いの卵焼きの存在思い出した。 「あ、よかったら食べてて」 ほいっ、と出されたその料理は、なんだかこの店の雰囲気に合わなかったけれど。 テンションが上がっていた俺は、手掴みで卵焼きをかじった。 「……うん、美味い、うまい」 そんな俺の姿を見て、またクスクスと笑いながら、「マスター、お客さんです」と奥の方へ声を掛ける。 その華奢な後ろ姿を見つめながら、なんとなく、出汁の味が付いた指先をぺろりと舐めた。 バックヤードに通じるドアから出てきた長い黒髪を纏めた美しい男が微笑んだ。 「いらっしゃい。隼人の卵焼き美味しいよね。なに飲む?」 見た目と話し方のギャップがあった。 「マスター」 隼人、と呼ばれた綺麗な店員さんが少しだけ睨んだ。 「お客さんのいる所で、名前で呼ばないで下さいよ……」 鋭い小声で注意され、奇妙な雰囲気のマスターは「ごめんごめん」と軽く謝る。 「いいじゃん。隼人、って俺は好きな名前だよ……そうだ! 俺は、洸樹、っていうんだ。よろしくねー」 笑いながら隼人の手に俺の手を伸ばすと。 「……よろしく、洸樹さん」 苦笑いしつつ、握手を交わしてくれた。 そんな二人を見つめていたマスターこと、藪内 稜(やぶうち りょう)はタオルにくるまった男を見た。 「……ホットワインは好き?」 微笑みながらミルクパンで下ごしらえをしたワインとシナモンを一本入れて沸騰しない温度で煮込む。 甘すぎず、スパイシーで体を温める。 「……まずは、疲れた身体と心にどうぞ」 耐熱のグラスに入ったホットワインを差し出した。 「疲れた心、ね」 そう呟くと、出されたホットワインを、疲れた身体にそっと注ぎ込んだ。 確かに、ここに来るまでに泣いて、ここに着いたら笑って、疲れたかもな。 美味い卵焼きをかじりながら、ホットワインをちびちびと飲む。 するとごく自然に、俺の隣に隼人が座って。黒髪からふわり、と良い香りが漂う。 「マスター、稜さん。俺もホットワインください」 「いいよ。バイト終わったし。奢る」 クスクスと笑いながらミルクパンに同じくワインとシナモン、レモングラスを入れて煮込む。 すこし爽やかな香りが店内に漂った。

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