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「めっちゃ濡れたーーー!」
大声で独り言をかまして帰宅したコーイチ。
革靴を脱ぎ捨て、べちゃべちゃになった靴下を脱ぎ脱ぎし、裸足でぺたぺた家の中へ。
「大丈夫かな~って思ったけど全っ然大丈夫じゃなかった~~、走ってきたけど全身ずぶ濡れだー、さむい~、お風呂はいろっか、な、うおおおっ!!??」
長かった独り言は一つの衝撃によって終了した。
「おかえり、コーイチ」
居間のほぼ中央に阿南が立っていた。
それだけなら別に珍しくも何ともない。
阿南の腕の中には……黒いネコミミを生やした、何ともか弱げなコがいた。
コーイチが阿南に買ってきた長袖シャツを着ていて、それ以外……何にも身につけていないようだ、太腿が丸見えである。
逞しい肩にぎゅうっと抱きついて、前下がり気味のショートボブをさらりと流し、顔には眼鏡。
か細い首の周りがうっすら赤くなっている、痣だろうか?
「そ、そのコだれ!?」
「彼はネコミミ科の三里だ」
「えっ、女子じゃないの? 野郎なの!?」
阿南の背後に回ってコーイチがまじまじ覗き込んでみれば、逞しい肩にうつ伏せていた三里がちょこっと顔を上げた。
「……だぁれ……」
「あっ、コーイチ! 高二! 巽さんと阿南とここで一緒暮らしてる!」
「……ぼく、三里……」
ぱたぱた揺れるネコミミにコーイチは「わぁぁ」と目を輝かせた。
阿南のイヌミミは立派で雄々しい感じがする。
こちらのネコミミは愛らしくてカワユイ感じがする。
イヌミミ科もネコミミ科も同じケモミミ目に分類されるが同じカテゴリーの生物とは思えない……。
阿南はコーイチに三里を見つけた経緯を淡々と説明した。
三里がぽつりぽつり生い立ちについて述べたことも。
全て聞いたコーイチは表情を曇らせた。
「なにそれ、ひでぇ……」
悪徳ブリーダーの元に生まれ落ちた三里は劣悪な環境で育った。
食事もろくに与えられず、狭いケージで暮らしていた。
注意力が散漫だった飼い主の隙をついて逃げ出して。
昼は人気のない薄暗い場所で休み、夜に移動し、お腹が空いたらゴミを漁って。
この町に辿り着いた。
疲れ果て、着ていた服もボロボロ、もう動けないと廃屋の庭で冷たい雨に打たれながら眠っていたら。
『大丈夫か』
阿南と出会った。
「かわいそう」
コーイチが頭を撫でようと手を掲げたら、三里は、阿南の腕の中でビクリと身を竦ませた。
また逞しい肩にうつ伏せてしまう。
叩かれていた記憶が反射的に蘇って害意のない手にすら恐怖を覚えてしまうようだ。
それなのに。
「……阿南、阿南……」
阿南にはすんなり身を任せている。
きっと最初の出会いで心を許したのだろう。
『怖がらなくていい……今からソレを外す』
逃げることに必死だった三里はソレを放置していた。
首をきつく圧迫する首輪。
ずっとずっと昔につけられたもので、成長しても留め具は同じ位置のまま、硬い革は柔らかな皮膚に日に日に食い込んでいった。
外そうとすれば叩かれるので、我慢し、いつの間にか息苦しさには慣れて意識しないようになって。
阿南が首輪を外してくれた瞬間。
制限されることのない呼吸はこんなにも美味しかったのかと、三里は、びっくりした。
『……おいしぃ……』
『……』
『空気……あまぃ……』
かつて戦場で似たような台詞を阿南は聞いたことがあった。
生きることは芳醇でかけがえのない甘露だと。
戦場からかけ離れた平和なこの地で同じ意味合いの言葉を口にした彼に阿南は胸が張り裂けそうになった。
『名前は。あるのか』
『……三里……』
『俺は阿南だ』
『……あなん……阿南?』
『ああ、三里』
『阿南……おめめ……どうしたの? けがしたの……? だいじょうぶ……?』
ボロボロの身でありながら隻眼である自分のことを心配してきた三里を阿南は優しく抱き上げた。
守りたい。
夢のように思える穏やかな一日を三里にも過ごしてほしい。
そのまま家に連れてきた。
ボロボロの服を脱がし、シャワーを浴びせ、ふかふかタオルで拭き拭きし、自分の服を着せて、抱っこして。
それからずっと抱っこし続けている。
「阿南、どーすんの?」
「……緒方に頼んでみようと思う。三里と共に暮らすこと」
「うん!うん!」
「誰だ、そいつ」
帰ってきて当然驚いた緒方。
まるで自分が三里を発見したかのようなテンションで身振り手振り説明したコーイチ。
その傍らでずっと三里を抱っこしている阿南。
話を聞き終えた緒方は阿南の懐で眠っている三里を見た。
「阿南の場合は国から補助金が出てる。国家に従事して戦地で負傷した、その慰謝料みたいなモンだな。だから経済的に切羽詰まってもいねぇし。いいんじゃねぇか」
喜んで飛びついてきたコーイチの頭を撫で、緒方は、阿南に笑いかけた。
「お前が自分の欲求を前面に押し出してくるなんて初めてだしな」
「……すまない、緒方。明日から俺はコンビニでバイトしようと思う」
「はあ? じゃあ誰が三里の面倒を日中見るんだ?」
「……」
「気なんか遣うな。俺はお前の飼い主だぞ」
「俺もーっ」
滅多に動じない阿南のイヌミミが僅かにぴょこりと揺れた。
「三里、あーん、だ。口を開けろ」
三里に対する阿南の愛情はなかなかのものだった。
「あーん」
「少し熱いな。ふーふーしないと」
「ふーふー」
二日目のカレーライスを見事な過保護っぷりで食べさせている。
向かい側に座っていた緒方は些か胸焼けしそうで、その隣に座ったコーイチは何だか羨ましそうな眼差しで眺めていた。
「ねーねー、巽さんっ」
「俺は食うので忙しいんだ、あーん、なんかやってる暇ねぇ」
「~~っ、じゃあ阿南にやってもらう! 阿南っ! あーんっ!」
「阿南と三里の邪魔してんじゃねぇ、コーイチ」
「むぐぐっっあづぃぃぃッッ!」
緒方からスプーンを口内に突っ込まれて慌てふためくコーイチに、向かい側で初めて食べる美味しいものをモグモグしていた三里、ちょっと笑った。
零れ溢れた小さな笑顔を見、今までにないくらい胸が満たされた阿南。
「じゃ、邪魔って……え、阿南、そーなのっ?」
「どう考えてもそうだろ」
「あ、あんな体格差あるのに? 今日会ったばっかでっ?」
「人のこと言えんのか、お前」
「////」
向かい側でコーイチと緒方が小声で交わす会話も耳の外を通り過ぎていくくらい、三里の笑顔に視線を奪われて。
「阿南、阿南」
鳴き声みたいに自分を呼ぶ三里を、阿南は、愛した。
心安らぐ四人での生活が始まるのだと、そう、思っていた……。
だが、しかーし。
「体、変……ハァハァする……」
三里が第一次発情期を迎えた。
おかげで心穏やかではいられなくなった者が現れた。
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