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32-ふたりきりの-最終章
「先生っ、三里が倒れました!」
二限目の体育の授業中だった。
体育館でバレーボールの指導にあたっていた阿南は複数の同級生に囲まれている生徒の元へ大股で、いや、駆け足で向かった。
三里は床の上に力なく横たわっていた。
眼鏡はずれ落ちて瑞々しい唇は半開き。
体操着のシャツが捲れて白いお腹が覗いていた。
「三里」
しゃがみこんで呼びかければ目を閉じたまま浅く頷き、阿南が着用する半袖のスポーツウェアをきゅっと握り締めてきた。
「……チーム毎にパス練習開始、俺は三里を保健室に連れて行く。度が過ぎる私語は慎め」
ぐったりしている三里を背負った阿南は生徒らに指示し、風通しのいい体育館を大股で後にした。
はむっ
「ッ……三里、やめろ、俺のうなじを食うな」
ぐったりしていたはずの三里にうなじを甘噛みされ、体育館棟と本棟を繋ぐ渡り廊下の途中で阿南は注意した。
「しょっぱいです」
「味わうな……お前、さっきのは演技とはいえ心臓に悪い」
「ごめんなさい」
「ああいうのは金輪際やめろ」
「ごめんなさい」
貧血で倒れたフリをした三里は素直に謝ってから言った。
「先生、このままデートしましょう」
「……放り出すぞ、三里」
「具合悪いフリしたら、みんなの前で堂々といちゃつけるもん」
「……いちゃつけるもん、じゃない」
「保健室では添い寝してくれます?」
「……俺は授業に戻る」
「じゃあ僕も戻ります」
「……倒れた手前、次の授業までベッドで寝ていろ」
授業中で静かな校内。
阿南に背負われた三里は無表情ながらもルンルン気分、頼もしい背中にぎゅっとしがみつき、膝丈の半ズボンを履いた両足をこどもみたいにブラブラさせた。
三里は高校三年生になった。
初めて阿南に体育の授業を受け持ってもらい、かつてないくらい毎日楽しく学校に通っていた。
「ここを僕のおうちにします」
いきなり何を言い出すのかと、人気のない廊下を突き進んでいた阿南は肩越しに三里へ視線を投げやった。
「先生の背中に住みます」
体育館の熱気を引き摺って火照る背中に頬を押し当て、女子めいた前下がりのショートボブ黒髪を擦らせて、三里は好き好き大好きな匂いを嗅ぐ。
「とりあえず災害保険に加入しなきゃですね」
「……あちこちガタが来ているからリフォームも必要だな」
「ぜんぜん。ガタガタなんかしてません。猛烈クセになる居心地です」
たまに見知らぬ酔っ払いから警察関係か自衛隊の人間かと尋ねられる阿南の、縋り甲斐のある逞しい体を満喫していたら、保健室に到着した。
「あら、三里君」
「……すみません、体調が優れないようなので休ませようかと、ベッドは空いているでしょうか」
保健室には年嵩の養護教諭と、長椅子に腰かけておしゃべり中だったサボリと思しき女子生徒が二人、ベッドで休んでいる生徒が数人いた。
「丁度奥のベッドが空いてるわ」
「……三里、降りろ、自分で歩いていけ」
仕切りの白いカーテン前で阿南が背中から下ろそうとすれば。
三里は愚図ってさらに強く肩にしがみついてきた。
「あらあら」
優しい養護教諭は微笑ましそうに笑う、厳しいことで有名な体育教師が入室してきて押し黙っていた女子生徒二人は揃って顔を背け、にやけないよう堪えるのに必死だ。
「阿南先生も一緒に寝て下さい」
割と破天荒である三里の突拍子もない言動に今更驚いてもいられず、阿南は、冷静に我が身から三里をベリッと引き剥がした。
「保健室をサボリに使うな」
実際、元気ピンピンである女子生徒を注意し、足早に保健室を去って行った。
置き去りにされた三里は体温計で熱を測り、恐ろしく平熱の元気ピンピンでありながらも奥のベッドで休ませてもらった。
糊のきいたシーツがカサカサと音を立てる。
各ベッドがカーテンで仕切られた空間、他の生徒の咳払いや寝息、再開された女子生徒の小声によるおしゃべりが聞こえてきた。
「阿南せんせぃ、こわ」
「来年うちら受け持ちじゃ? こわ」
「顔はいーんだけどね」
「顔とカラダはね」
顔半分が隠れるまで洗剤の香る布団をかぶり、横向きに丸まった三里は目を閉じた。
保健室は好きだった。
入学当時は本当に体調不良で頻繁に利用したものだ。
しかし、ある日を境にして利用回数はぐっと減った。
阿南との関係が始まって。
幅広かったセフレゾーンはみるみる縮小し、体育教師一人に限定されてからというもの、三里の体調はすっかり安定した。
阿南の食べかけを率先的に食べて以前よりもマトモな食事をとるようになったし。
阿南の好きな甘いものも口にするようになり、それまで大して興味のなかったおやつも食べ始めた。
次の週末は阿南先生にどんなおやつ買っていこうかな。
早く土曜日にならないかな。
毎日、体育の授業があればいいのに、午前と午後に一回ずつ。
毎日、阿南先生におんぶしてほしいな……。
「……三里、午前中の授業全部寝て過ごしたそうだな」
「うっかり熟睡しちゃいました」
呆れる阿南先生にじゃれつき、戯れに顎を撫でてもらってご満悦な三里なのだった。
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