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第10話 渉君3
(なごみ語り)
渉君は一時間ほど僕に鍼を打ってくれた後、軽いマッサージをしてくれた。久しぶりに鍼をしてもらったせいか体がだるい。
体にいい影響が出ている証拠だからよく眠れるよ、と渉君は静かに言った。
渉君の持つ空気感が僕を少し浮上させてくれた気がする。ずっと暗い海の底にいた僕は、日にも当たらず誰とも会話せず漂っているだけだったから、やっと人間らしく呼吸ができた気がした。
午後の診療のため一旦治療院へ戻った渉君から夕方に電話があった。
「洋ちゃん、仕事が終わったらまた行くから、ご飯を一緒に食べようよ。どうせロクなものを食べてないんでしょ」
「朝来てくれたから今日はもういいよ。渉君はゆっくり休んで」
渉君の治療院から家は近い距離ではない。電車に乗って20分はかかるのだ。
「いいや、洋ちゃんの保護者だし、一緒に食べれる時は作ってあげるから。僕がやりたくてやってるから気にしないで。何が食べたい?」
あっ、大野君にも言われて泣いたセリフだ。
だけど、今回は涙はではなく、食べたいものがすぐ口について出た。
「じゃあ、すき焼き」
「すき焼き?牛肉は胃腸に負担がかかるからダメ。魚にして」
「聞いたの渉君じゃん、すき焼きがいい」
「えーもう、しょうがないなぁ。今日だけだよ」
何でもないやりとりに笑みがこぼれる。
今まで普通に話をして笑う行為をどのようにやってたのか忘れていたのだ。
ちょっとずつ歯車が回り始め、止まっていた僕の時間が動き始めた気がした。
本当に渉君はすき焼きを作ってくれた。そして僕が眠たくなるまで一緒に話をして、優しく頭を撫でてくれた。まるでお母さんはこんな感じなんだと、僕に教えてくれているようだった。
僕は久しぶりにぐっすり眠ることができた。
諒を想わずに寝たのはあの日以来初めてのことだった。
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