72 / 270

第72話 大野のズル休み1

(大野語り) 家に着いたのは、3時近くだった。 帰り道はあまり覚えていない。 体が帰り道を知っていたから家まで連れて行ってくれた、そういう感じだ。 脳みそは考えるのを止めてしまったらしく機能しない。契約書だけは何度もカバンに入っているのを確認した。再び失くしたら、今度こそなごみさんに見放される。それだけは避けたかった。 俺の家は下町にある和菓子屋だ。 サザエさん家のような引き戸をガラガラと開けると、仕込みをするために早起きした兄貴とばったり遭遇した。和菓子屋は兄貴が継いだから、俺は好き勝手にサラリーマンをしている。 元々手先が器用な兄貴は親父と一緒に宝石のような和菓子を作る。地元タウン誌によく特集を組んでもらっていて、知る人ぞ知る和菓子屋らしい。 今度はデパートの期間限定売り場に店を出すらしく、張り切っていた。 「……ただいま……」 「お、隼人、遅いな。仕事か?あと数時間で出社じゃないか」 「あ……うん……」 兄貴の白い調理服がやけに眩しく感じた。 職人は自分との戦いだと兄貴が自慢げにいつも言っている。俺だってなごみさんを好きな自分と戦ってるが、それとこれとは次元が違う。 ああ、彼女できたって言われたんだった。 照れたように告げられ、頭が真っ白になり、もうそれ以降は考えられなくなっていた。 会社を休みたい。 なごみさんに会いたいけど、会いたくない。 その時の自分を思い出すと、カッコ悪すぎて泣きたくなる。ほぼ1人で仕事を進める兄貴が羨ましいとさえ思った。 「……今日、休もうかな……」 呟いてみると重い気持ちが少しだけ軽くなる。 1日だけ仕事から解放されて何も考えずにひたすら寝よう。そしたら明日からは頑張る気になるかもしれない。取り敢えず煮詰まって沸騰しそうな頭を冷やしてみようと思った。 間接的にふられたくらいなんとかなる。 まだ最後の手段で直接対決が残ってる。 「お前休むの?午前様だもんな。たまにはゆっくり休めよ。あっそうだ、少し遠いけどいい治療院があるんだよ。暇なら行ってみればいい。そこの先生がいい人でさ、腕もいいから俺の紹介って言えば診てもらえるよ。体の調子を整えるつもりで行けばいい。 お前は疲れすぎなんだよ。無理すると後から来るからな」 兄貴に言われて、休むことを自分の中で肯定した。そうだよ、少しくらい休んでもバチは当たらない。 俺には休養が必要だ。

ともだちにシェアしよう!