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第72話 大野のズル休み1
(大野語り)
家に着いたのは、3時近くだった。
帰り道はあまり覚えていない。
体が帰り道を知っていたから家まで連れて行ってくれた、そういう感じだ。
脳みそは考えるのを止めてしまったらしく機能しない。契約書だけは何度もカバンに入っているのを確認した。再び失くしたら、今度こそなごみさんに見放される。それだけは避けたかった。
俺の家は下町にある和菓子屋だ。
サザエさん家のような引き戸をガラガラと開けると、仕込みをするために早起きした兄貴とばったり遭遇した。和菓子屋は兄貴が継いだから、俺は好き勝手にサラリーマンをしている。
元々手先が器用な兄貴は親父と一緒に宝石のような和菓子を作る。地元タウン誌によく特集を組んでもらっていて、知る人ぞ知る和菓子屋らしい。
今度はデパートの期間限定売り場に店を出すらしく、張り切っていた。
「……ただいま……」
「お、隼人、遅いな。仕事か?あと数時間で出社じゃないか」
「あ……うん……」
兄貴の白い調理服がやけに眩しく感じた。
職人は自分との戦いだと兄貴が自慢げにいつも言っている。俺だってなごみさんを好きな自分と戦ってるが、それとこれとは次元が違う。
ああ、彼女できたって言われたんだった。
照れたように告げられ、頭が真っ白になり、もうそれ以降は考えられなくなっていた。
会社を休みたい。
なごみさんに会いたいけど、会いたくない。
その時の自分を思い出すと、カッコ悪すぎて泣きたくなる。ほぼ1人で仕事を進める兄貴が羨ましいとさえ思った。
「……今日、休もうかな……」
呟いてみると重い気持ちが少しだけ軽くなる。
1日だけ仕事から解放されて何も考えずにひたすら寝よう。そしたら明日からは頑張る気になるかもしれない。取り敢えず煮詰まって沸騰しそうな頭を冷やしてみようと思った。
間接的にふられたくらいなんとかなる。
まだ最後の手段で直接対決が残ってる。
「お前休むの?午前様だもんな。たまにはゆっくり休めよ。あっそうだ、少し遠いけどいい治療院があるんだよ。暇なら行ってみればいい。そこの先生がいい人でさ、腕もいいから俺の紹介って言えば診てもらえるよ。体の調子を整えるつもりで行けばいい。
お前は疲れすぎなんだよ。無理すると後から来るからな」
兄貴に言われて、休むことを自分の中で肯定した。そうだよ、少しくらい休んでもバチは当たらない。
俺には休養が必要だ。
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