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第92話 揺れる乙女心3

(なごみ語り) 実家を口実に使ったせいか、久しぶりに幼い頃の夢を見た。薄暗い部屋でピアノの前に座り、ひたすら弾いている夢だ。真っ黒いグランドピアノは今にも僕を飲み込みそうに暗く深い蓋が開いていた。 僕の母はそこそこ有名なピアニストで、僕を厳しく教育した。7歳でソナチネを制覇した。 好きな作曲家はショパンとシューマンで、中でもショパンのノクターンは楽譜を見ないでもいいくらい全曲を弾き込んだ。神童と呼ばれた時期もあった。 中学生の時、とあるコンクールで僕は頭が真っ白になり、指が思うように動かなくなった。理由は分からない。だが、1回つまづいたものは起き上がるのも困難で、僕はピアノが弾けなくなった。 母は諦めが付かず、大きな病院にも行って検査もした。骨や神経に異常は無しで、結局心理的なもので済まされた。周囲は失望したに違いない。 そこから僕は家族から必要とされなくなる。 いたたまれなくなり、音楽から全く関係ない大学へ進み、逃げるように家を出た。 何の価値も無くなった僕に学費や生活費を援助してくれた彼女には感謝している。 そんな面白味もない僕の過去は、誰にも話したことがない。 諒でさえ暗い胸の内は話せなかった。 「なごみさん、おっはようございます」 「……おはよ」 2月終わりの寒い朝、約束した通り大野君が迎えにやってきた。似つかわしくない大きな四駆がアパート前に停まったので、誰かと思ったら大野君だった。 意外な趣味に少し驚く。 車を褒めると大野君は照れたようにはにかんだ。こういうところは可愛いと素直に感じる。大きな車に乗る彼は、契約書を無くした人と同じ人物にはとても思えない。 「顔色悪いですよ。よく眠れました?」 昔の夢をみたせいか夢見がすこぶる悪い。 それに、あまり眠れなかった。 僕のことをよく見ている。気づくところが細かいのだ。 「うん。ちょっと寝不足」 大野君が後部座席からキャラクターものの毛布を引っ張り出してきて、膝の上に乗せる。 何かの景品で貰ったもので、いつも載せてあるんで、彼女とかではありませんからね、と僕に念押しした。 「じゃあ着くまで寝ててください。着いたら起こしますから。あっと……サービスエリアで一旦休憩しますので、取り敢えずそこまでで」 「ありがとう。いいの?つまんなくない?」 「いいんです。帰りに寝られるよりマシです。楽しかったね、とか美味しかったね、とか感想を話しながら帰りたいんで。そうだ、寝る前にこれを食べます?」 そう言えば、車内はあたたかく甘い匂いがしていた。 「兄貴が押し付けてきたから、しょうがなく乗せました。要らなかったら無視してください」 後部座席にはお重に入った色とりどりの和菓子が入っていた。桜餅やあんこの団子等、手でつまみやすいものが並んでいる。 「これもどうぞ。ピクニックかって話ですよね」 水筒からあたたかいほうじ茶を注いで渡された。 「ありがとう」 「いいえ。こちらこそ兄貴の押し売りですみません」 飲みながら、僕には兄弟がいないので羨ましく思った。

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