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第151話 甘いと切ない4

(なごみ語り) エレベーターはまだ来る気配が無く、待ちながら別のことを考えていた。 今日は大野君と仕事帰りにデートをする予定だ。彼の仕事が休みなので、会社まで僕を迎えに来てもらい、車で海岸沿いの夜景を見に行く。先週から楽しみにしていた。 さっきも大野君から朝の挨拶と共に今夜の予定がメールで送られてきた。 僕は潮の香りが好きだ。中学生の頃、ピアノの練習が嫌いで逃げ出したくなると、1人で電車に乗り海を見に行った。海を見ていると心のささくれが静かに収まる気がするのだ。何もかもが息苦しかったあの頃を少し思い出すが、今は怖くない。 エレベーターが上階に着いたことを知らせる音が鳴った。慌てて、カワイさんを迎えようと姿勢を正す。扉がゆっくり開いた。 「………お待ち……して…まし……」 姿を見た途端、信じられない人の登場にしばらく動けなくなる。目の前の人は、僕の記憶にいる人とそっくりだった。 カワイさんとは、河合さんで、たぶん下の名前は諒だ。 そして僕の恋人だった。間違いないと思う。 大きな身体つきも、黒を基調とした私服も、いつも持っていた鞄も、この人は諒だと俺に教えていた。3年以上会ってなくても、記憶が彼を呼び覚ました。 「………始めまして。河合と申します。白勢社長に呼ばれました」 「名刺、ありがとう……ございます。どうぞこちらへ…………」 低い声も諒そのものだ。 だけど、何故僕を知らないフリをするのだろうか。貰った名刺にもスタジオ名の隣に『河合諒』と記されているのに。 これ以上諒とは話が広がらず、複雑な思いを抱きつつも、社長室に案内した。 僕の方から話しかけるタイミングも完全に失ってしまった。向こうから「久しぶり」と言ってくれることを期待していたから、まさか「初めまして」と言われるとは思わなかったのだ。諒からは僕に関する記憶は失われてしまったのか。それとも思い出したくもない過去だったのだろうか。 後輩女子にコーヒーを応接室へ出すように依頼して、ふらふらと自席へ戻ると、東室長が寄ってきた。 「和水。今の方はカメラマンとか?」 「ええ。社長のお知り合いで仕事の話って言ってましたけど、詳しくは知らないです」 「そうか。あの人が例の人か。これから頻繁に出入りするかもしれないな。俺の予想だと、そのうち広報部長が呼ばれるよ」 間も無く卓上の電話が鳴り、室長の予想通りの指示内容だった。

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