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第157話 大野の想いと葛藤2

(大野語り) 地下鉄と私鉄が交差する大きめの駅から歩いて10分の所に目指す鍼灸院はあった。 何を宣伝する訳もなく、診療時間が書かれたパネルが入り口に掲げてあるだけだ。それだけで患者さんは口コミでやってくる。だからこの佇まいは、興味本位の患者さんをやんわり断っているようにも見えた。 午後の診療には早かったが、俺は躊躇わずに扉を開ける。 「……すみません……」 冷房の効いた室内に生気が蘇る。当然だが他に患者さんは居なかった。 反応が無かったので、もう一度呼ぼうかと口を開きかけた時、その人は現れた。 「午後の診療はまだですが……あ、大野弟」 呼び方に一瞬ムッとしたが、覚えていてくれたことに胸を撫で下ろした。 「お久しぶりです。いつも兄がお世話になっています。今日は渉さんに聞きたいことがあって来ました。少し時間を貰えますか」 なごみさんに似て整った童顔が苦い表情をする。以前に2人が付き合っていたとか、俄かに信じ難い。俺は、なごみさんと河合を知っていて、なごみさんの元恋人である渉さんの元を訪ねていた。 「そろそろ来る頃かとは思ってたんだよね。諒君も帰国して真っ先に洋ちゃんの事を聞きに来たから。やっぱり両方に情報を与えないとフェアじゃないと思うんだ。いいよ。奥に入って。それとも治療しながら話しようか?君って結構身体がバキバキだったよね」 「ええ、まあ、できればお願いします」 借りたTシャツと短パンに着替える。3年以上ぶりに会った渉さんは、全く変わっていなかった。忙しいと思うのに、多忙さが全く滲み出ていない。勿論疲労感や寝不足も感じられなかった。これだけの状態を保つには並大抵の努力が必要だろう。 同時に高いプロ意識も感じた。人を癒すための職業だから、自分が疲弊していたら意味が無いのだろう。姿勢のいい後ろ姿を見て思った。 「洋ちゃんは元気?君たちは付き合ってどれくらいになったのかな」 仰向けに寝た俺の両手首を軽く握り、脈診をしながら渉さんが質問をした。 「2ヶ月です。ええ、元気です。さっき河合になごみさんとよりを戻したいから別れて欲しいと面と向かって言われました」 少し間があった。渉さんは黙々と鍼を打っている。 「そう。この間来た時も同じことを言っていたよ。すごい自信だなって僕も思った。それで大野君はどう感じたの?負けそうだなって思った?」 負けそう………とは感じなかった。なごみさんを好きな気持ちは誰にも負けない。 ただ、漲る強い自信には負けそうになった。根拠が無くても無理矢理に納得させようとする強引さが奴にはあった。 芸術家にはそういうタイプの人間が多いと、兄貴が言っていた。 「河合の勢いには負けそうになりました。だけど、なごみさんを好きな気持ちは誰にも負けません。これは譲れないです」 「じゃあ、問題ない。君がブレると、洋ちゃんは間違いなく不安定になるよ。その隙を諒は絶対に突いてくる。狙いはそこだろうね。 あんなふり方をしておいて、よくも今更ノコノコ出てきたもんだと思わない?知ってると思うけど、洋ちゃんは諒君と別れてから自暴自棄になって、酷い生活をしてたんだ。可哀想で見ていられなかった」 少し昔を懐かしむように、だけど決して許せないと渉さんは話し始めた。 渉さんは、なごみさんに未練があり、俺に敵意を向けてくるんじゃないかと覚悟してきたのに、予想は外れたようだ。彼にはもう別の大切な人がいるのかもしれない。 渉さんは俺たちのことを応援してくれている。暖かい気持ちが鍼を通して流れてくるような気がした。

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