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第172話 渉の恋1
(渉語り)
夏が終わりを告げ、朝晩が段々と涼しくなってきた9月の終わりに、洋ちゃんが僕の治療院へやってきた。3年以上ぶりだ。
勿論、番犬もお供に連れてきた。その昔、番犬は飼い主に構ってもらうことだけを考えて尾っぽを振っていたのに、現在は番犬として役に立っているらしい。前よりかは精悍な顔立ちに見えた。何気にいい男になっているのが癪に触る。
とにかく洋ちゃんが幸せそうで良かった。
僕を見ると涙を浮かべて微笑むので、思わず貰い泣きしてしまいそうになる。僕にはしてくれなかった無邪気な表情を大野に見せていた時は、素直に心の中で白旗を上げた。羨ましいくらい大野は愛されている。先日彼の身体から感じた通りだった。
未練が無いと言えば嘘だが、過去に縋るのはみっともないからやらないし、やりたくない。
「ねえ、渉君。今はどんな人と付き合ってるの?」
うつ伏せになった洋ちゃんに鍼を打っていると聞かれた。おそらく大野が余計なことを言ったに違いない。確かに僕は今、すごく幸せだ。
心の中に愛しい人を思い浮かべてみる。
「ふふふ………内緒」
「ええー。少しぐらい教えてよ。何してる人?」
「うんとね……普通の人だよ」
「………分かった。もしかして榊さんとか?」
「………全然違う。その人の名前は聞きたくないから出さないで」
洋ちゃんの腰は思ったほど悪くなかったが、昔痛めた肩は散々だった。デスクワークが長い人は、パソコンの所為で上半身に負担がかかる。洋ちゃんの首も肩も固くなって動かすのも辛そうだった。血液の流れが悪くなっている。
久しぶりに触れる元彼の素肌に懐かしい気持ちになりながら、僕は数ヶ月前、開業してから半年が経った時のことを思い出していた。
僕の治療院は、とある小さなビルの1階の1部をテナントとして借りていた。独立したからと言って儲かるわけではない。
自分を頼ってきてくれる患者さんをゆっくり余裕を持って診るために、時間と場所が必要だった。そのために独立した。だから、完全予約制だし、僕1人が診る患者さんにも限りがあった。
しかし、1人で切り盛りするのは不可能で、前治療院からアスカちゃんという女性の鍼灸師さんがついて来てくれた。給料も以前より安くなるかもしれないのに、アスカちゃんは了承してここへ入ってくれた。本当に彼女には感謝している。
そんなある春の日の夕方だった。
夕方の診療前に、ふと外を覗いた時だった、
朝降っていた雨が夕方にも再び降り始めたのだ。春の長雨かとため息をついたら、隅の方で雨宿りをする小さな影を見つけた。
小さな男の子が治療院の前で1人雨宿りをしていたのだった。
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