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第173話 渉の恋2
(渉語り)
「こんな時間に珍しいですね。雨の中、子供1人だと危なくないですか?私が話をしてきます。親御さんを待っているのかな……心配だな」
早速アスカちゃんが小さな影に近づき、話しかけていた。僕が見たところ4歳ぐらいの男の子だ。アスカちゃんに聞かれたことに頷いたり、返事をしている。左腕には赤色のくまさん型バッヂが付いていた。
年の割にはしっかりした子という印象を持った。話が終了したらしく、間も無く彼の手を引いてアスカちゃんが治療院へ入ってきた。
「待鳥センセ、この子、近くにある保育園から1人で抜け出したみたいです。すぐ園に電話しないと警察沙汰になってしまう。私、電話してきますから、この子をお願いします」
「あ……うん………こんにちは。あーと、えーと、お名前は何て言うのかな?」
男の子と2人、入ってすぐのソファに腰掛けた。子供の患者さんも診ているので扱いは慣れている方だとは思う。だが、治療中は保護者の付き添いがマストなので、こうして2人きりというのは余り無かった。
「………あゆむ………」
間も無く小さい声が名前を告げた。くまさんバッヂには『しんじょう あゆむ』と記されている。
「あゆむくん。はじめまして。僕はわたると言います。おうちの人が心配するから、今お姉さんが電話しに行ったよ。ところで、お腹空かないかな?クッキー食べる?」
患者さんから頂いたアイシングクッキーを彼の目の前に出した。その方は料理教室を自ら開催しており、猫や犬の可愛らしいクッキーをよく差し入れてくれる。
間が持たないと食べ物で釣ってしまう自分が情けない。クッキーを見た途端あゆむくんの目が一瞬輝くも、僕を恨めしそうに見た。
「まどかせんせいに、しらないひとから もらっちゃダメっていわれてるから……」
当然、僕は知らない人だ。きっと『まどかせんせい』はあゆむ君にとって信頼できる人なのだろう。優しい女性像を思い浮かべてほっこりした。きっと素敵な先生だ。
「じゃあ、お土産に持って帰る?まどか先生と食べてよ。それならきっといいかもしれない。僕がお迎えに来てくれた人に渡すね。こんな可愛いクッキー、先生も喜ぶよ。とっても美味しいから」
「うんっ」
嬉しそうに彼は頷いた。
間も無くアスカちゃんが戻って来たので、あゆむ君は彼女にお願いして僕は治療の準備に取り掛かった。
受付に置いてある予約票を見て唖然とする。
午後5時に榊さんの予約が入っていたからだ。榊さんは元恋人で、僕にとっては大昔の男だ。だが、榊さんは僕にまだ未練があるらしく、彼の意味ありげな行動が鬱陶しいことこの上なかった。
彼のゴリ押しをやんわりと避ける日々が1年近く続いていた。そろそろキッパリと拒絶しなければならない。
「すみませんっ、あの……はぁはぁ……あ、あゆむ君は………?」
突然扉が開き、汗だくの男性が治療院に入って来た。背は僕より少し高く、短めに切られた短髪は爽やかさを感じる。エプロンには、見たことのある丸いパンのキャラクターが付いていた。何事かと僕が構えると、あゆむ君が勢いよく駆け出して行き、その人に飛び付いた。
「まどかせんせいっ」
「あゆむ君………良かった。心配したよ。本当に良かったぁ………」
『まどかせんせい』は男だったことに驚愕した。
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