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第174話 渉の恋3

(渉語り) まどか先生は、僕を見ると深々と長く一礼をした。 「この度はありがとうございました。何とお礼を言ったらいいか……あゆむ君が無事で良かった。本当にこちらの皆様のお陰です」 彼は名を『武藤 円』と名乗った。 若いのに姿勢が良く、声に張りがあって好感が持てる。きっと子供達に信頼されている先生なのだろう。 それにたぶん……筋肉質な身体じゃないのかな。これは職業病みたいなもので、思わず彼の胸筋辺りに指を這わした。思った通りに固いし、胸板も一般の男性より厚い。トレーニングを普段からやっている身体だろう。 保育士の仕事だけで付くような筋肉ではなかった。 「あ、あの…………」 「あ、ごめんなさい……僕は仕事柄、人の身体が気になるもので。いい身体してますね。 機会があれば是非鍼を打たせてもらいたいな、とか思ってしまいました。ふふふ。 あゆむ君、うちで良ければ、いつでも遊びに来てもいいからね。だけど、先生を悲しませたらいけないよ。もうこんな無茶はしないこと。わかったかな?」 もじもじしていたあゆむ君は、小さく『うん』と頷いた。自分が何をして悪かったか、言わなくても理解をしている。賢い子だと思った。 約束通り、まどか先生にアイシングクッキーをお土産に持って帰ってもらい、可愛い笑顔とサヨナラをする。 突然訪れた小さな客人に、僕はかなり癒された。これで榊さんの毒気には負けるまい。 あゆむ君達が帰り、入れ違いで榊さんがやってきた。仕立てのいいスーツと、重たそうなカバンに、高級腕時計を嫌味なく身に付けている。口を開かなければ仕事のできる40手前のビジネスマンだ。 僕は冷静に治療を始める。 「なあ、渉。今度美味しいワイン飲みにいかないか?知り合いのレストランがあって、そこは料理も絶品だ。きっと渉も気に入ると思う」 「…………行きません。今はここを軌道に乗せるので精一杯なんで無理です。違う誰かを誘ってください」 何度言ったか分からないセリフを繰り返した。相も変わらず手を変え品を変え誘ってくる榊さんに辟易する。僕は受け入れるような雰囲気を全く出してないのに、めげない所がある意味凄い。 「………渉は冷たいな。少しでいいから隙を見せてよ。昔みたいに可愛く俺に甘えて欲しい」 「ははははっ、絶対に無いですね。さあ、仰向けになって下さい」 そんなの天地がひっくり返ってもあり得ない。考えるだけで寒気がする。 洋ちゃんがずっと別の誰かを想っていた事実を知ってから、恋愛には嫌気が刺していた。もう同じ思いは2度としたくない。ましてや過去の男と再び仲良くしようとも思わなかった。 3年以上経ち、洋ちゃんに対して悪い気持ちは消えていた。僕は洋ちゃんがとても好きだったから、完全には嫌いになれなかったのだ。 正確には彼を好きだった自分が、今までで生きてきて1番全身全霊で恋をしていた。それを否定したくなかった。 榊さんに説明した通り、今は仕事が恋人だ。

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