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第175話 渉の恋4
(渉語り)
それから1週間が経った。日常の喧騒に紛れて、あゆむ君事件をすっかり忘れていた。有難いことに予約を沢山頂き、忙殺される日々を過ごせるようになっていた。
余裕とまでは言わないが、見通しが付くと周りが見えるようになってくるものらしい。僕はようやく開業の不安が消えて一息つけるようになった。
午後8時、最後の患者さんを見送り治療院を閉めた。アスカちゃんが合間に会計処理をやってくれるので、簡単な事務処理をして帰宅することができる。
4月はまだまだ寒い。グレーのブルゾンを着込んで歩き出した。ここから歩いて15分の所に僕のマンションがある。なるべく自宅から通いやすい所でここに決めたのだ。いつもは自転車だが、今朝は雨が降っていたため徒歩だった。
川沿いに立つ葉桜の木を見上げながら歩く。今年はゆっくり花見をする暇もなかった。来年は出来るといいな……と思っていると、川向こうから声が聞こえてきた。最初は別の誰かの話し声かと気にしていなかったが、耳を傾けると僕の名前が聞こえたので、驚いて反対側に目を凝らした。
「待鳥せんせーい、こんばんはー。ここでーす」
誰かが………手を振っていた。
あ、武藤まどか先生だ。一瞬誰か分からず考えてしまった。僕が気付くと、少し先にあった橋を渡って軽快にこちらへやってきた。
「先日はありがとうございました。お陰様であゆむ君も落ち着いてます。今、お帰りですか?」
「ええ。そうです」
まどか先生は、いかにもなジョギングスタイルをしていた。黒いジャージに小さなナップサックを背負い、ジョギングシューズを履いている。
「はい。通勤はよっぽどのことが無い限り走ってます。気持ちがいいですよ。待鳥先生のお家はこの辺りですか」
「ええ。少し歩きますが、近所です」
いつの間にか2人並んで歩きながら世間話を始めた。
まどか先生は身体を動かすことが好きなようで、マラソンや草野球、フットサルもやっているそうだ。僕はあまり運動が得意じゃないので歩くぐらいしかしないな、と思いながら感心して相槌を打つ。
僕より5歳ぐらい若い彼は、真面目で真っ直ぐな印象を受けた。物事を裏表ある見方をせず、見えている部分を素直に受け取る。彼みたいな先生なら子供も信頼できるだろう。
「ところで、待鳥先生はご結婚されてますか?」
ご結婚……?そっか。世間ではそんな年齢に入るのか。時おり年配の患者さんに心配されていても、僕はゲイなので婚姻制度を活用する予定は無かった。
「していませんよ。予定もないです」
少し自嘲気味に答えると、隣にいたはずの彼が僕の前に回り込んで来た。
辺りには雨の匂いが充満している。街路灯に反射して濡れたアスファルトがキラキラと光っていた。夏の香りに似た湿気を含んだ風が僕の周りを吹き抜けた。
「もし良かったら、今度飲みに行きません?美味しいお店があるんですよ。もっと待鳥先生とお話がしたいです」
「………いや……別に構いませんが」
歳下に慕われるのは悪い気はしない。
飲みに行くと生活リズムが崩れるからとか、酒は身体を冷やすから好きじゃない、とか断る理由は色々あったが、彼を見ているとそんな気は起きなかった。
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