179 / 270
第179話 渉の恋8
(渉語り)
「えっ?冗談言わないでよ。まだ君のことを何も知らないし、今は頭がパニックで何も考えられない。ちょっと待って……」
「………ぁ、ごめんなさい………」
彼の軽いノリに苛立って語句が強くなった。
とにかく服を着たかったので、まどか先生に後ろを向いてもらい、下着を付けてスウェットを着た。パンツが入っていた袋をゴミ箱へ捨てようとした時、丸めた大量のティッシュが目に入る。なんとなく何を拭いたのかが分かってしまい、揺るがない現実にくらくらした。たぶん中身は白い粘液だろう。
ベッドを降りて、床に座った。さっき貰った水の続きを飲み、膝を抱えて考える。
段々と頭がクリアになってきて、断片的だが思い出してきた。僕は俗に言う『賢者タイム』には今まであまり縁がなかった。だが、今頭の中でずしんと重くのしかかってくる現実と後悔の塊は、反省をより鮮明にしており、これが賢者タイムなのだろうと思った。
もっとも僕は賢者じゃないけど。
昨晩は、とても楽しかった。まどか先生とお酒を飲みながら沢山話をした。
二軒目では、知り合いの飲み屋に移動して彼の生い立ちを聞いた。小さい頃から両親が共働きのため、保育園で長い時間を過ごしたそうだ。そこで出会った保父さんに憧れて、今の職に決めたらしい。
彼らしいと思った。真っ直ぐで嘘のつかない瞳に吸い込まれるようだった。
その後、すぐお開きにすれば良かった。僕も翌日仕事があるからと帰れば良かったのだ。
話は過去の恋愛に移り、僕の記憶は途切れ途切れになる。きっと洋ちゃんのことを思い出して自暴自棄になったのだろう。
ものすごく自分寄りに分析すると、開業ストレスからの解放と失恋に対する陰の波形が重なったのだと思われる。
「あ、あの……渉さん。怒ってますよね。俺……あなたに一目惚れしたんです。1ヶ月前、出勤の際に治療院の前を掃除しているあなたを初めて見かけました。凛としてて、朝の澄んだ空気がよく似合う人だと思いました。それから毎日目で追うようになったんです。一方的ですけど、会えた日はテンションが上がって仕事を頑張ろうって思えました」
静かにゆっくりとまどか先生が言った。
まるでパニックで神経が苛立っている僕を宥めるように、優しい声で語りかけてくる。
子供にもこんな風なのかなと頭の隅でぼんやり考えた。彼の声は心を落ち着かせる何かがある。
「あゆむ君のことであなたと知り合いになれて、本当に嬉しかったです。…………昨日は調子に乗って俺の部屋まで連れてきてすみませんでした。付き合おうとか軽く言う言葉じゃないですよね。俺、全部忘れますから。だから……嫌いにならないでください……」
ああ……悪いのは全部僕なのに、彼に気を使わせてしまっている、セックスをしようと誘ったのは僕だし、誘惑したのも僕だろう。
僕をいいと思ってくれたから誘いに乗った。普通の男なら健康的な思考だ。彼だからこそ心を許したのだと思う。まどか先生だから甘えてしまったのだ。
どうしたらいいのだろう。
「………ごめん。僕の方こそ理不尽に怒って申し訳なかった。次は……飲みすぎないようにするから、またご飯に行こうか。君とは、そこからゆっくり始めたい。関係を急ぐのは僕の性に合わないんだ。勿論、嫌いになったりしないよ」
「…………はい。よろしくお願いします。手始めに携帯番号から教えてください」
「あれ、交換していなかったっけ?」
「してませんよ。渉さんはガード固すぎです」
まどか先生は、僕の言葉を聞いて何も反論せず、いたずらに笑った。
僕は彼と、恋愛または友情をゆっくりと築いていきたいと思った。その先は何があるかは分からない。性格や価値観が不一致で友達止まりかもしれないし、それを超える何かがあり恋人になるかもしれない。
部屋に飾ってある丸いパンヒーローのぬいぐるみもにっこりと笑った気がした。
ともだちにシェアしよう!