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第180話 渉の恋9
(渉語り)
そして、まどか君が淹れたコーヒーを飲み、乾燥機で乾いた服を着た。時間になったので、お礼を言って彼の家を後にする。丁寧にアパートの外までお見送りをしてくれた。
今までの自分なら絶対にしなかったことを、一晩でやってしまった。深酒や酔った勢いの諸々と朝帰り。洋ちゃんの家ですらあまり泊まらなかった。次の日が休みの日の場合は、ごくごく偶にお泊まりもしたが、片手半分で足りるくらいだ。
朝の澄んだ冷たい空気のなか、歩を進めながら先ほどの事を思い出していた。
一目惚れだと生まれて初めて言われた。
改めて冷静に考えると、恥ずかしくて赤面する。こんな僕でも好いてくれる人が居ることに、救われた気持ちになった。
「待鳥センセ……もしかして昨日と同じ服じゃないですか。まさか、例のパティシエさんですか?クッキーを渡しに行きましたよね。でも向こうはあゆむ君がいるし……違うか。子供がいたら、朝帰りなんて出来ないですよね。お相手は誰です?教えてくださいよぅ」
そのまま出勤すると目敏いアスカちゃんに気付かれて、訝しげに見られる。
アスカちゃんは僕の恋愛対象が男寄りなのを知っている。それが大好物なんです、と食いつきが激しい。僕の恋愛は『萌える』のだそうだ。鍼灸について勉強している時よりも熱心さが格段に違う。
「き、気のせいじゃない……かな。外を掃除してくるから、部屋の中をよろしくね」
獲物を狩るような彼女の前から逃げるように外へ出る。
箒と塵取りで軽く掃いて、黙々と窓ガラスを拭いた。入り口は治療院の顔だから毎日の掃除は欠かせない。
「渉さん、おはようございます。これ、忘れ物です」
後ろからいきなり声を掛けてきたのは、通勤途中のまどか君だった。さっきまで会っていたにも関わらず、心臓が跳ね上がる。他人に言えない2人の秘密があるからだろうか。
忘れ物と称して渡された紙袋には近所の有名なベーカリーのパンが入っていた。
「一緒に食べようと思って渉さんが寝ている隙に買って来たんです。渉さん、すぐ帰っちゃったから。よかったらどうぞ。お仕事頑張ってください」
「…………うん。ありがとう。まどか君も頑張って」
空腹でお腹がぐぅと鳴った。意中の人を振り向かせるには、まず胃袋から掴めばいいと自ら学んで実践していたが、まさか僕がやられるとは。恥ずかしさでお腹の底がむず痒くなった。
それから、季節は夏を迎えた。
洋ちゃんが大野と付き合いだしたと、風の噂……鬱陶しい患者の榊さんから聞いた。
あの2人はかなり前から好き同士だったから、僕はもう気にしない。やっとくっ付いたかと思ったくらいで、素直に洋ちゃんの幸せを祈った。
まどか君とは相変わらず、ご飯友達のままだ。時々食事に行ったり、彼が遅番の時は川沿いで待ち合わせて一緒に帰ったりしていた。
あの件から彼は何も言わない。だから僕も言い出せなかったが、本当は少し彼のことが気になりだしていた。
「渉さん、今日は神社のお祭りって知ってました?今から行きませんか。うちの園児さんもいるかもしれない。みんなすごく楽しみにしていたんですよ」
7月の終わりの蒸し暑い夜、遅番のまどか君と川沿いを並んで歩いていた。
どこからともなく聞こえるお囃子と、子供のはしゃぐ声が辺りに響いている。
まとわりつくような湿った空気に汗が滲んている。
「わ、お祭りなんだ。どうりで浴衣の人が多い筈だね。行ってみようか」
「行きましょうよ」
僕達2人は誘われるまま神社の階段を上った。
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