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第221話大切をきずくもの4
(なごみ語り)
6月の終わりに、僕は社長の所用で少し遠くの役所へ出かけていた。外出を頼まれた日に、あることを決行しようと決める。6月30日は隼人君の母である雪絵さんの誕生日で、日頃のお礼にプレゼントを渡したいと思っていたのだ。
何が喜ばれるのか分からなくて、隣席の同期八木さんに聞いた。今年も6月15日の東室長生誕祭に室長本人が参加しなかったため元気を無くしていたが、丁寧に教えてくれた。
僕は母親というものがよく分からない。僕を生んでくれた人で、死なないように世話をしてくれた人。それ以上もそれ以下もない。憎んだり、大切に想ったりする人間らしい感情は欠如している。母親を心の拠り所にする息子の心理には全く共感できなかった。他所の世界の話だと今でも思っている。
『彼女の母親』には、スカーフやハンカチ、エプロン等が適しているらしい。あと甘い物も候補に挙げてもらったが、和菓子屋さんなのでやめておいた。
デパートで、雪絵さんに似合いそうな花柄のエプロンを購入し、社長の用事を済ませてから地下鉄に乗ろうとホームで待っている時だった。
でかでかと、とあるピアニストの凱旋コンサートが宣伝されていたのだ。嫌な予感がしたが、目が離せなかった。長い髪にスラッとした体型はあの頃と変わっていない。もう10年近く実物には会っていなかった。
『ピアニスト清香 凱旋帰国』
僕の母親が来月に日本へ帰ってくる。しかも都内有数の収容人数を誇る巨大なホールでコンサートを行うらしい。立派になったもんだな。自信に満ち溢れた笑みを見ると、彼女が使っていた甘い香水を思い出す。『洋一』と僕を呼ぶ声も忘れてしまった。
何の感情も湧いてこない。僕の中で何かが欠如しているのは自覚していたが、今さらどうしようとも思わなかった。
少し眺めた後、僕は到着した地下鉄に乗り込んだ。
「すいませーん……雪絵さん……いますか……」
お昼過ぎ、光月庵はひっそりとしていた。おかしいな。この時間は大体店番をしている筈だから、狙って訪問したのに。
誰もいない店内で考えあぐねていると、奥から人が出てきた。初めて見る若者だ。金髪に近い髪色が和菓子屋に不釣り合いで、調理服を着ていなかったら空き巣に間違えたかもしれない。
「はいはい、なんスか」
「あの……雪絵さんは?」
「おかみさんは、急な用件で外出してます」
しーんと辺りが静寂に包まれた。『代わりに用件を伺います』とか『◯時には帰ります』の言葉を待ったが、期待は無駄だと悟った。
この青年はたぶん野元駿太さんだ。隼人君から愚痴に近い話を聞いていた。いかにも隼人君が嫌いそうな不真面目感が漂っている。
野元君からはタバコの香りがして、店裏で吸っていたのだろうと想像がついた。和菓子を扱うのに、そんなところも許せないだろう。
「あとどれくらいで帰ってきます?」
「うーんと。午前中から出てますから、もうじきじゃないっスかねぇ。なんなら待ちます?どーぞ、こちらへ」
また出直すとなると、次はいつ訪問できるか分からなかったので、待たせてもらうことにした。
店内の椅子に座って外を眺めていたら、野元君が冷たい緑茶を出してくれた。意外なところに気が利くらしく正直驚いた。
だ、だめだ。こんなことお客さんには当然なのに、野元君に限りハードルを低く設定してしまっている。ある意味見た目で得している彼が僕に声をかけてきた。
「あの……もしかして、あなたがなごみサン?」
「…………はい、そうですけど」
「やっぱり。ヨーイチの実物だ。おかみさんの言った通り、綺麗な顔してますね。次男サンとなごみサンと取り替えて欲しいってボヤいてたっス。あの、握手……お願いしても。」
「握手?…………」
差し出された彼の冷たい手と手を合わせて握った。握手しながら、野元君は僕の手の甲を摩っている。
「本当に手もスベスベ。いいなぁ。あの、なごみサンも次男サンと同じリーマンなんスよね。OLさん紹介してくださいよ。いい匂いのするオンナの人、誰かいませんかね。合コンしたいのに、ここの次男サンは全然やってくれない。ケチなんスよ」
次男さんは野元青年が苦手なのだろう。冷たい態度には想像がついた。
「あまりそういう合コンとかは好きじゃないんだ。だから、僕に頼んでも無理かもしれない。ごめんね。それに恋人がいるから行かないよ」
「えぇぇぇっ、なごみサン、ホモじゃあるまいし、イケメンが宝の持ち腐れっス。勿体無い。攻めで行きましょうよ。今の恋人よりいい人がいるかもしれない。人生は常に狩りじゃなきゃ。まだまだイけますって」
よく分からない勢いに圧倒されそうだった。言っても彼には理解できない世界だろうが、僕はホモで、次男さんが恋人だ。
次男さんが聞いたら即怒り出しそうな野元君の持論だ。
「そうかな。これでも攻めてるつもりだけど」
「まだ足りないっス。あの、ライン教えて貰えますか。合コンやりまっしょ」
うーん。返答に困る若者だ。結婚予定とか適当な嘘を吐いてその場を逃げようと思っていた。
「おい、野元。仕事サボって何やってんだよ。あ、なごみさんも何やってるんですか?」
「はや………大野君こそ………」
隼人君と言いかけて、咄嗟に口をつぐんだ。
彼の後ろには、スーツを着た女性が立っていたからだった。
ネームプレートをぶら下げていたので、同じ会社であることは一目瞭然だった。
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