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第230話大切をきずくもの13
(なごみ語り)
「おい、和水。大丈夫か?」
切れた電話に呆然としていると、室長に声をかけられた。急に耳が聞こえにくくなり、くぐもったような室長の声が耳にぐわんぐわんと響く。
「だ……いじょ……ぶです」
思いっきり鼻声なので、異変に気付かれたかもしれない。
「部下のプライベートまで立ち入る権利はないと承知してるが、今の電話……知り合いか?」
僕は黙って首を振った。
あんなやつ、知り合いじゃない。だけど、ここはオフィスだ。もうすぐ女子が帰ってくるので、大ごとになるのは嫌だった。泣き虫の自分はどこかへ行った筈なのに、情けない。
「ちょっと休んで来い。あっ、これはあれだ……お前が泣いていると、他の社員にも影響が出るから、平常心になるまでゆっくりしてこいってことだからな。時間は気にすんな。社長のサポートは俺が入る。とにかく落ち着かせて、笑えるようになったら戻ってこい」
「すみません……出直してきます」
社長と喧嘩中だから、秘書業務を室長に任せたらやりにくいと思う。ごめんなさいと、済まない気持ちでトイレへ行く。顔を洗い、個室に入って座った。
昼休みが終わりを告げ、女子社員が話しながら秘書室へ戻って行く音が聞こえる。彼女達はいつも楽しそうで羨ましい。
ここのトイレは秘書と役員しか使わない。役員は大半が外出しているので、貸切に近かった。ネクタイを緩め、白色の蛍光灯を眺めながら涙が止まるのを待つ。それよりも動揺した震える心が治らない。
隼人君が僕の連絡先を渡したんだ。
今日は直行してホテルへ行くと言っていたし、後にも先にも、事情を知っているのは彼しかいない。前恋人の渉君や諒にも話したことがなかった。きっと良かれと思ってやってくれたんだろう。
彼の眼差しはいつも真っ直ぐで、包まれていると居心地がいい。正義感も強く、僕に対しても誠意に溢れていた。育った環境が温かい両親が作ったものだから、今の彼があると思う。
でも、今回のことには素直に喜べずにいたし、少し忌々しくさえ感じていた。
できれば放っておいて欲しかった。本音を言うと、僕が話さなければ、結果的にカミヤさんから電話を受けることはなかったのだ。
全く面識ない母を護る人からの口撃に、僕は自分で思うよりも深く傷付いていた。
僕の母は本当に厳しい人で、自分にも他人にも妥協することをしなかった。優しく抱きしめられたり、遊んでもらったりという幼い頃の記憶は殆どない。気付けばピアノ漬けの毎日を送っていて、ピアノが僕の全てだった。ピアノができないと母に褒めてもらえないし、ピアノで結果を残さないと母に認めてもらえなかった。
中学3年生で突然弾けなくなってから、思い出すのは、のっぺらぼうの母の顔だ。ため息だけが耳に残っている。
そんな母が僕と再び会うことに強い拒否を示した。僕には母親は居ないのだ。
元々期待なんかしていなかった。なのに、なのに……追い討ちを掛けるような言葉を聞きたくなかったな。
さっきから、ポケットの携帯がずっと震えている。着信主が隼人君だったとしても応えるつもりはなかった。不快な振動音がトイレに響いているが、無視をした。
しばらく1人になりたい。仕事が終わったら、遠くへ行ってしまいたいなと、ぼんやり考えながら、携帯電話の電源を静かに落とした。
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