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第236話大切をきずくもの19
(なごみ語り)
悶々と考え込んだ週末を迎えた。というか、会う以外僕は選択肢が無いようだったので、素直に流れへ従うことにしたのだ。
隼人君が調べたスケジュールによると、母さんは週末に大きなホールで交響楽団のコンサートへゲストとして呼ばれていた。有名な作曲家のピアノ協奏曲を弾くそうだ。なんの伝手か、隼人君がソールドアウトしたチケットまで手配してくれた。営業力ですよと照れくさそうに笑う彼の努力を無駄にしたくない。
軽く夕食を取ったあとに夜のコンサートホールへ入る。シャツにカジュアルジャケットという出で立ちは、普段見せ合うことがない。お互い照れながらシートへ腰掛けた。パンフレットに書いてある横文字を必死で追う隼人君の姿はとても可愛い。
「なごみさん、この……ラ、ララン……」
「ラフマニノフね」
「凄い人なんですよね?」
「好き嫌いが別れるけど、母は好んで弾いてた。有名な曲だよ。聞いたことあるかな」
「ありません。クラシックには縁がないものですから」
隼人君は多分眠くなるだろうなと思いながら、コンサートが始まった。やはりチャイコフスキーは彼の子守唄になってしまったようだ。こっくりこっくりと船を漕ぐ恋人は、慣れないクラシックコンサートにまで同行してくれた。新しいプロジェクトは忙しいようで、毎日帰りが遅い。本当はテレビでも見ながら寝ていたいだろう。
僕は君さえいれば、なんにも要らないのに……
君は家族を大切にしろと言う。
だから、過去と向き合うことを決めたんだ。
そして、途中休憩を挟み、いよいよ母の出番となった。無意識に強張る身体を宥めるためか、隼人君の温かな掌が僕の拳を包み込む。僕もキュッと握り返した。
喝采のなか現れたのは昔と変わらぬ母の姿だった。肩が開いた藍色のドレスは、胸元に白い花が咲いている。
ピアノを目の前にした途端、少女のようなあどけない瞳に真剣な炎が灯った。しいんとした静寂に水の雫を垂らすように、極上の音符を丁寧に落とし始めた。
響くピアノの音が、観客の脳へ直接染み込んでいく。
会場全体が彼女のピアノに酔いしれているような、そんな錯覚を覚えた。
『焦っちゃダメ。静かな時を楽しみなさい。ピアノは生きものよ』
彼女の口癖が頭に蘇る。
昔は楽しかったんだ。楽しくて楽しくて、いつまでも弾いていたかった。
「おかあさん…………」
自然と涙が溢れてくる。
隣にいる隼人君が慌てながらハンカチを差し出したので、それを黙って受け取った。
短いような長い時間はあっという間に過ぎていく。
母の演奏が終わった瞬間、一時の間の後、凄まじいタンディング・オベーションに包まれた。
ブラボーと口々に称える声が聞こえ、耳を劈(つんざ)く拍手が鳴り止まない。
久しぶりに母の演奏を聴いて、変わってないなと思った。あの頃と何も変わっていない。音に深みは増しても、母は母のままだ。
コンサートマスター、指揮者と握手を交わし、彼女が笑顔でお辞儀をした。長い髪がはらりと肩から垂れる。
ピアノの音に浄化されたのか、以前のようなどす黒い感情は消えていた。
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