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 一方で母は最期まで父の悪口をいう事はなく、それどころか「あの人とは死ぬまで一蓮托生だから」と笑っていた。母がいくら夫婦として死ぬも生きるも一蓮托生だと思っていても、父はきっとそんな事思ってはいないだろう。  たとえ見合いの席で池に浮かぶ蓮の花を見て、父が母に「一蓮托生の覚悟を持って君と夫婦になりたい」と言っていたなど、そんな事は所詮まやかしにしか過ぎない。  母を好いていたわけではなく、資産家の娘だからというだけで逃したくなかっただけなのだ。母に愛があるなら、愛人など作らない。それに見舞いにも来るはずだ。  天野はずっと父に不信感と憤りを感じながら生きてきた。それでも母が悲しまないようにと、余計なことは言わずに口を噤んでいた。  天野が十七歳、泰子が十四歳の時に、母は流行病によって亡くなってしまった。  兄妹で母の最期を看取り、骨は都内に持ち帰った。天野は母のような慈悲深い心で父を許すことは出来ず、それどころか怒りと憎しみを募らせていた。  憎悪を膨らませ続けること、三年の歳月が流れた頃。天野の人生が変わるほどの出来事が、突如として起きる。  天野は二十歳になり帝国大学文学部に通う学生で、泰子は十七歳で高等女学校に通っている。  女性は基本的に学業よりも早く嫁に嫁ぐほうが良いとされていて、泰子の学友の殆どが中退して嫁いでいってしまっていた。  天野は少しばかし泰子の行く末を不安に思っていたが、対する泰子はあっけからんとしていて、結婚に対しては無頓着なようだった。

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