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「ああ、ブラックウェル…そう言えば」 去り際をマクレガーに呼び止められた。 急ごしらえの簡素な小屋の下、相手はジャケットから1枚の紙片を取り出した。 「お前が地元に帰る時で構わないんだが、少しばかり頼みがあってな。実は俺の妻が…」 マクレガーは其処ではたと動きを止めた。目の前の部下が、何か言いたそうな顔つきで此方を見ていたからだ。 「…何だ?帰るの止めたのか?」 「いえ、その…」 事情を説明しようとして、ブラックウェルは口を閉ざした。 何故だろう。言葉が全く出て来なかった。 可笑しな話だった。 戦争が終ろうと、彼に付いて行く所存だと一言、一言そう答えれば良かっただけが、妙な物が気道につっかえていた。 上着の中に潜んだ車の鍵がやけに重かった。急に、見た事も無い師団長の令嬢の姿が頭に浮かび上がった。 気道を塞いでいた何かが、どす黒く澱んで体内を侵食し始める。巨大な塊となり、知らぬ間に胃の中で暴れ回って、吐き気を催すレベルだった。 「…その話は、また今度にしましょう」 不穏な箇所を握り締め、どうにかそれだけを口にしてブラックウェルは立ち去った。小さな後ろ姿が、瞬く間に遠ざかり雪の中に溶けていく。 呆気に取られ見送ったマクレガーが、ふと1人我関せず地形図を見ている友人を振り返った。 どう考えても元凶はこの男に思えた。あの、部下の様子からして疑う余地も無かった。 マクレガーは目を細め、静かに等高線に指を滑らせるアッカーソンを睥睨した。 「おいエル、せいぜい慎重に答えろ。アイツに何を言った」 「別に何も。俺の車の鍵を渡しただけだ」 顔も上げずに相手は涼しい声色で答えた。 マクレガーの眉が釣り上がる。専属の運転手兼秘書にでもする気か。この男がそんな物を渡せば、それは最早有無を言わさず縛り付ける桎梏だ。 「アイツの希望は?聞いたんだろうな」 「いいや」 「お前、もう率直に問うが…知ってるだろ」 「何を」 頭痛を覚えて眉間を押さえた。 答を知りながら、マクレガーは相手の口から聞かずにはいられなかった。 「だから、アイツが好意を持ってる事を」 心の何処かで否定してくれ、とも思っていた。流石に其処まで最低な性根だとは考えたくなかった。 然れど相手はあっさりと、少し間を置いて肯定の台詞を寄越した。 一体何時からなのか。男の今までの言動を思い出し、沸々と静かな瞋恚の火が熾り始める。少しばかり良心を信じてやったのが間違いだった。 マクレガーは胸中のままに右手を握り締めた。

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