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 しっかり足を踏みしめて歩かないとよろけてしまいそうで、さり気なく書棚に手をつきながら確かこの棚の辺りだったと二人を奥の書棚に案内する。  床から天井まで文字通り書棚になっているそこには、メジャーな専門書からマイナーなものまでぎっしりと本が敷き詰められていて、その本達を眺めながら長谷川が感嘆とも落胆ともつかぬ溜息を吐く。 「骨が折れますよね。僕も彼らがどの本を見ていたかまでは分りません。上の方を見たいときはそこにある梯子を使ってください」と付け加える。  まじまじと一冊一冊、目を皿のようにして身を屈めて下段から見ていく長谷川を横目に、由汰は後ろの書棚にもたれようとして、だが、ちょうどそこへ中途半端に飛び出した本を見つける。  医学洋書の『視覚・眼科臨床用語辞典 第五版』だ。少しぼーっとしかけてきた頭でしばらくそれを眺めて、一点を見過ぎて焦点がだぶりだす中、自分には一生かけても理解なんてできないだろう洋書の医学専門書籍をそっと押し込めようとして、 「手が震えているぞ」  耳打ちするような低い声に、目の前の焦点がカチッと戻る。 洋書を押し戻す手前で、己の手が小刻みに震えているのに気がついた。 とっさに引っ込めて握り込む。 織部に指摘されるまで気が付かなかった。  しかも危ない、少しぼーっとしてしまっていた。体のだるさと手の震え。数値で言えば70を切ったあたりか。いや、60辺りまで下がってきているかもしれない。  思えば昼もろくに食べないままインシュリンを打って、補食も摂らず気づけば二十時過ぎだ。低血糖になっても仕方ない。 視界が霞んでないだけまだましか。 けれどこれ以上は、頭が少しぼーっとしてきたとなれば、眩暈まで起こし始めたら厄介だ。  手の震えを織部がどうとったか分らないが、探るような冷ややかな眼差しをさり気なくかわしながら、 「あの、僕ちょっと席外しても?」  織部を通りこしてあえて長谷川に尋ねる。 「ああ、構いませんよ。見終わったら声かけますんでね」 「すみません」  と、一言据え置いて、踵を返しながら後をついて来ようとする織部を肩越しに振り返った。  なんだと口を開きかけて、それを長谷川に遮られる。 「南さん、この辺の写真撮らせてもらっても構いませんかね」 「ええ。お好きなだけ」  ()がり(はな)の手前からでは、奥の棚に隠れて見えない長谷川に声だけ投げてから、黙ったまま背後に立つ織部を胡乱げに見上げた。  お前は長谷川と一緒に書棚を調べなくていいのか。  言おうとして、いやどうでもいいかと開きかけた口を閉じた。  無言で佇む織部をそのままに、由汰は上がり端へと続く磨りガラスの引き戸をスーッと開けて靴を脱ぐと、一段上がった板の間に上がる。  引き戸の奥は店と違って初夏の熱気で空気がむっとしていて淀んでいた。 日中のほとんど由汰は店にいることが多いため、居住区の方は基本エアコンを切っている。 このまま戸を開けっぱなしにしておいて少し空気を循環させよう。  『径』は、大正初期に建造されて改築を繰り返されてきた年期の入った古い平屋だ。  外装は漆喰の横板張りで、板(下見板)を下から互いに少しずつ重なり合うように取り付けたもので、今日日、国内ではあまえり目にすることも無くなった様式ではあるが、欧米諸国などではまだよく見られたりもする。屋根はなんの変哲もない一般的な瓦屋根だ。  その昔、漬物屋だったとされる建物には大戸と呼ばれる路地に面した入口があり、それは全面ガラス張りの襖のような大きな引き戸で、外を歩いていると中の書店の様子がよく見て取れた。  今時木枠の戸や窓は、セキュリティ面でも防寒対策にもあまり有効的ではなかったが、壊れている訳でもないし由汰自身も気に入っていることもあり、出来る限りこの空襲を免れた年代物の建物を保持していたくて、近所の建具屋さんにたびたび交換を薦められるのをことごとく断ってきている。  大戸を開けて中に入ると、奥に向かって二十畳の土間が広がる。  昔の雰囲気を活かしてそのまま土間を店として利用しており、壁から壁に、床から天井にかけてひしめき合うように書棚が並ぶ。  大地震でもくれば、一瞬にして大量の本と書棚に押し潰されるだろう。  土間を挟んで右側に八畳と十二畳の二つの小土間が、奥と手前にと縦列してあり、どちらも木製の引き戸で区切られているだけの土間続きの部屋だ。  昔はここがお勝手、つまり台所として使われていたが、今は十二畳の部屋を書庫に、八畳の部屋を週一回の染物教室に使用している。  一方、書店の土間を挟んで左側は住居となっており、土間より一段高い作りになっていた。  上がり端(居間)へと続く戸は磨りガラスの引き戸になっていて、その戸を開ければ板張りの上がり端、つまりは居間に直結しておりキッチンやトイレ、風呂場などが所狭しとまとめられていた。  居間の更に左側には縦列して六畳の畳の部屋が二つ。それぞれ押入れが備え付けられており、寝室と染物の作業場として使っていた。 店の前の通りに面した部屋が寝室で、その裏の庭に面した部屋が作業場だ。 作業場には、三千雄とその妻の――由汰は会ったことはないが――仏壇が置いてある。 作業場の襖を開ければ縁側があり、縁側を挟んだガラス戸の先には、猫の額程度の庭がブロック塀に囲まれてあった。 庭には鉄柵の観音扉があって容易に裏道へと抜ることができる。  人が住むにはちょっとばかし古すぎるほどのものではあるが、なかなか広いし風情があると由汰は思う。  元の家主の三千雄が、住みやすいように色々と手を加えていることもあり、生活するにはなんら不自由はなかった。  エアコンもついているし、風呂だってボタン一つで湯が沸かせる。  ただキッチンだけは昭和初期のままで大分傷がいっている部分もあったが、そのまま使うのには問題なかったし、お湯が出るだけましだ。  由汰は気だるい足取りで、テレビとちゃぶ台と二枚の座布団、それと隅っこに小さな多段棚が置かれただけの殺風景な居間をのろのろと抜けて台所に行く。  途中、仕事用のベージュのエプロンを頭から抜き取ってちゃぶ台の上に投げながら。  水切り籠に入ったままのグラスを取り出して、二つ扉の背の低い冷蔵庫からポカリスウェットのペットボトルを出すと、覚束ない手つきでグラスに注いだ。  血糖値を上げるには、ブドウ糖を含んだゼリーやポカリスウェットなんかが吸収も速く手っ取り早くて便利だった。  直接それ専用のブドウ糖を口に入れるのが本当は一番いいのだが、今は在庫を切らしていて無い。  熱気を孕んだ居間は、一瞬にして由汰の額にじわっと汗を滲ませる。  体のだるさといい手の震えといい織部といい、今日は色々と由汰をイラつかせる。  とにもかくにも、取り敢えずポカリを飲んで刑事が返るまでの間一時凌ぐしかなさそうだ。  本来であれば測定器で血糖値を図ってからにしたいところだが、今はそれすらも面倒だった。ポカリを飲んでから、その後測ればいい。  とは言っても時刻は二十時過ぎ。ポカリではなく、できることならきちんと夕飯を食べたい。  なのに、とグラスに口をつけながら何気なく振り向いて、 「うわっ……!」  と、由汰は思わずグラスを落としかけた。 「な、なにを勝手に上がり込んでっ」  腕を組んで居間の土壁に寄り掛かりながらじっとこちらを見やってくる三白眼と目が合って、驚きに危うく手を滑らせるところだ。 「警察だからって、無断で上がり込んでいいのか」 「お邪魔しますって聞こえなかったか」 「言ってないだろっ」  あからさまに嘯いてみせる織部は口許を歪めながら軽く肩をすくめてみせた。 「様子が可笑しいんでどこかへ逃げやしないか心配でな」 「勘弁してくれないか。何度も言うけど、何もしてないのに逃げるわけないだろう」  ったく、と悪態をつきながら由汰はポカリを一気に胃に流し込んだ。  グラスを流しに置きながら呆れ顔で織部を睨み付ける。 「なあ、あんたのその決めつけたような言い方、どうにかならない?」 「さっきも長谷川が言っていただろう。別に俺たちはお前を犯人だと断定しているつもりはない」 「どの口が」  思わず吐き捨てる。  断定していなくとも、そうじゃないかと推定してはいるんだろう。 「……具合が悪そうだな」 「関係ないだろ」 「顔が青い」 「ほっといてくれ」 「緊張で喉でも乾いたか。手の震えも」 「違うよ」 「言っておきたいことがあるなら今の内に」 「だから……」  ――そんなんじゃない。  あくまでも織部にはそう見えるのか。何度目かになる否定の言葉を口にしようとしてやめた。  力なく首を振る。  正直に糖尿病だと言えばこの男は素直に信じるだろうか。  それも贅沢病と言われているⅡ型糖尿病ではなく、膵臓のβ細胞が破壊されて二度とインスリンが分泌されないⅠ型糖尿病だと言ったら。  日本人の多くはこのⅠ型の存在をよく知らない。  ゆえに当初Ⅰ型糖尿病を発症した時も皆口を揃えて暴飲暴食でもしたんだろうと揶揄うように囃し立ててきたものだ。そういった輩もこの病気も由汰にとって煩わしい以外のなにものでもない。  十カ月前に突然Ⅰ型糖尿病を発症してこの方、病気との付き合いと仕事の両立がうまくいかなくてストレスの多い毎日を懸命にこなしてきている。  生活習慣も色々と変わらざるを得なかった。 楽しく美味しく頂いていた毎日のご飯も、カーボ(炭水化物)カウント(計算)が面倒で毎日同じものを食べて腹を満たすだけのものになったし、好きだったお酒も低血糖になりやすくなるため飲まなくなった。

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