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血糖値によっては意識が朦朧とすることもあることから、長年愛用してきたオートバイのヤマハ YZF-R1も泣く泣く手放した。
今ではもっぱら徒歩か電車だ。
体にも変化は現れた。疲れやすくなったし急に冷え性にもなった。
足がよくつったりむくんだりするようにもなった。そういった些細な変化も日々のストレスになる。
糖尿病は、インスリンを打てばいいってものでもなく、血糖値というものは運動量や気温、ストレスなんかで高血糖にも低血糖にもなるため、食事だけ気を付けていれば良いっていうものでもない。
長年試行錯誤した末に、自分に合ったさじ加減を見出していくしかないのだ。
カウントしたカーボ分のインスリン注射をしたのに、その後の測定でまったく血糖値が下がっていなかったり、低血糖を避けるために補食を摂ってから寝たのに朝方低血糖で起きられなかったり。
足りなかったかと追加打ちしたインスリンの量が多かったのか、逆に低血糖になってしまったり。
女心と秋の空。
ホルモンのバランス云々で前触れもなくころころと態度が変わるような子宮でしか物事を考えられない厄介な恋人と同棲させられているようだ。
それも一生付き合っていかなければならない恋人だ。
おまけに金もかかる。
どうしても別れたければ、その時は自分がこの世とおさらばするしかない。
由汰は大きく溜息をついた。気負って否定する気力も無い。
もっと言えば、この男相手にご丁寧に説明してやる気も無かった。
「疲れてるんだ。夕食もまだだし。ご希望に添えなくて残念だけど隠してることなんて本当に何もないよ」
由汰はふらふらっとちゃぶ台に手を突くと座布団に腰を下ろした。
さすがに立ちっぱなしは辛くなってきた。
動いたからか頭も少しクラクラしてきている。
ポカリを飲んだから十分もすれば気分も盛り返してくると思うが。
平静を装うなんてこともできなくなって、織部が目の前にいるのにも構わず黙って項垂れる。
「十年くらい前に、ここの元の家主と養子縁組をしているよな」
唐突に事件とは関係ないことを訊かれて、ちゃぶ台にもたれかけていた顔を上げる。
「そうだけど。それが何?」
「遺産を相続するための養子縁組だったわけか」
何かを含むような嫌な言い方だった。
「だったらなんだよ。さっきからあんたなんなんだ。勝手に人のことあれこれ調べて、それはプライバシーの侵害に当たらないのか? 警察なら何を調べても関係ないって?」
「建物は古いが、この立地なら売ればいい値がつくだろうな」
なんだってこうも話が噛みあわないんだ。
項垂れながら手の甲で額を押さえた。
「南三千雄とはどういう関係だった」
どういう関係とはどういうことだ――。
訊かれたことがよく分からなくてクラクラする頭をどうにか回転させて、その意味にようやく辿り着く。
眉を顰めて顔を上げると、見下ろしてくる三白眼と目があった。
その目に意外にも揶揄うような蔑むようなものは無く、思いのほか真面目な面差しになぜだか胸がざわざわした。
「なんでそんなこと訊くんだ」
諦念めいた気持ちから、少しだけ掠れ声になる。
「その綺麗な顔になら、ゲイでなくてもほだされちまうのかと思ってな」
そう言って細めた目になんだか危険な色が滲んで見えたきがして、思わず瞠目した。
「……な、に言って」
関心なんて無いような顔していたくせに、織部の口から綺麗な顔なんて単語が飛び出したものだから、まっすぐ見据えてくる三白眼に耐えかねて慌てて顔を逸らした。
タイミング良く「終わりました」と長谷川の声が店の方から飛び込んでくる。
とっさに何を動揺してか勢いよく立ち上がったせいで、由太の体がぐらっと傾いた。
「あっ」と、視界が天井を捕らえかけて背中から倒れるのを覚悟した瞬間、力強い手に腕をぐいっと引っ張られる。
引き寄せられて、はっとして仰げば、織部が由汰の腕を掴んで距離にして二十センチのところから見下ろしていた。
「いったい、何なんだ!」
言われて反射的に腕を振り解く。
掴まれたところが熱を帯びたようにじんじんした。
「持病なんだよ」
「持病だ?」
何か聞きたげにじっと見下ろしてくる織部から逃れるように、ふらつきながらもう一度立ち上がると、上がり端の戸に手をつく。
なぜ持病だなんて馬鹿正直に言ってしまったのか。男との距離の近さに柄にもなく動揺してしまったのだ。織部を前にするとどうも調子が狂う。
苦手な三白眼を前にしているからか。それとも――。いや、やめておこう。
「聞こえたろ? 終わったってさ。もう、帰ってくれ」
落ち着きなく跳ねる心臓の音を悟られまいと、なんとか平静な声でそう告げることができた。
病気のことで同情したり気遣われたり、奇異な目で見られるのは自分が否応なく病人だと思わされて嫌だった。
だからできる限り平静を装って気づかれまいと気張っているのに、不覚だ。
そんな由汰の気持ちを察したわけではないだろうが、織部は持病について触れることなく長谷川を連れて帰って行った。
上がり端を下りる際に、肩越しに「また、連絡する」と一言言い残して。
刑事二人を大戸口まで見送りもせず、上がり端に腰掛けたまま、頭のクラクラと手の震えが治まるのを待っていた。
体のだるさも、だいぶ回復してきている。きちんと糖分を摂って十分もすればこんなものだ。
織部たちが帰って気が抜けたのもあり、今日はなんだかこのままお風呂に入って寝てしまいたい衝動にかられるが、悲しいかな、片付けなければならない仕事はまだある。
その前に腹ごしらえだった。
由汰は冷凍庫から一つ160グラムに測っていくつも作り置きしてあるおにぎりを一つレンジに投げ込んでボタンを押した。
朝にまとめて作っておいた鍋の味噌汁を火にかける。
そうしているうちに、熱気で満ちた部屋を冷やすべく冷房のスイッチを入れると、テレビの横の多段棚から測定器を取り出した。
食事の前に血糖値を図らなければならないため、万歩計ほどの大きさの血糖値測定器に針を装着して左の人差し指の先に刺す。鈍い痛みにももう慣れた。
現在の血糖値は81mg。
悪くない数値だ。
となると、やはりポカリスウェットを飲む前は、60mg近くまで下がっていたということになる。
血糖値は基本70mg以上ないといけないのだ。
それ以下だと低血糖で虚脱感や倦怠感、眠気や震え動悸などが起こってしまう。
その症状は人によってさまざまだが、50mg以下などになると意識を失う場合もある。
低血糖の何が怖いかって、最悪な場合、失神してそのまま死に至るケースも少なくない。
しかし、どちらかと言えばⅠ型糖尿病はインスリンが全く機能しないため、高血糖になることの方が断然多い。飲食をすれば必ず血糖値が跳ね上がる。それを防ぐためにインスリン注射を都度打つのだ。
高血糖になったらその場ですぐどうこうと言うことはないが、高血糖が続くとゆくゆく様々な合併症を引きおこし、失明したり腕や足を切断しなければならなくなる。男性にはインポになる者も多い。最悪の場合死に至る。いずれにしても死に至る。
常に70mg以上110mg未満が好ましい値とされていた。
炭水化物には、それぞれのグラムに対して単位が決まっている。
それは炭水化物の中に含まれる糖質の量をざっと表す単位で、例えば米であれば80g一単位、食パンであれば六枚切りを一枚で一単位。
それぞれの単位を計算して、その時に必要なインシュリンの量を調整するのだ。
簡単なようですごく面倒くさい地道な計算だ。
全ての食材や調味料の単位を覚えられる訳でもなく、外食ともなるとそれがはたして何グラムの糖質を含むのか、カロリーがどれだけなのか。全て事細かに表示されているケースは多くない。
経験で培ってきた勘に頼るほかないのだが、経験の浅い由汰にとってはまだまだそのさじ加減が難しかった。
これくらいかと当てをつけてインスリン注射を打つ。
食後二時間で血糖値測定を行って、インスリンの量が足りないようであれば追加打ちをすると言った感じだ。
急いでいる時や外出先でなど、この作業はちくいち面倒臭かった。
十か月前、突如として舞い降りたⅠ型糖尿病という一生治らない厄介な病。
そのせいで、食に関しても毎日同じ物を食べるだけのつまらないものになった。
同じものを同じ量だけ作り置きしておく。
そうすれば、いちいち単位の計算をしなくても、毎回同じ量だけのインスリン注射をすればいいだけになる。それでも血糖値はうまいこと一定の数値を保ってくれないから、体の負担に加え精神的疲労も募る。
毎回代わり映えしない質素な食事に、時たまたまらなく惨めな思いにさせられる。
今日もそんな気分になりかけているが、そうそう落ち込んでいる暇もない。
適量と思われるインスリンの量を確定して、シャツの裾をまくり上げて脇腹にペン型のインスリン注射を打ち込む。
最初は、自分の体に自分で注射を打つなんてことが怖くてうまくできなかった。
何度も失敗して安くないインスリンを無駄にしたこともある。
けれど、十カ月経った今となってはそれも手慣れたものだ。
使用済みの針を回収箱に入れた時、カチカチっと音と同時に居間の電気が点滅し始めた。
「替えがあったかな」
一人ぼそぼそと呟きながら、吹きこぼれそうなほど沸騰している味噌汁の火を消して、隣の薄暗い作業場を抜けると、さらにも増して蒸し暑さを孕んだ縁側へでる。
縁側を行った奥に、梯子のような階段が天井裏から床上数十センチあたりまで伸び下がっている。
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