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 中二階と言って、天井と屋根との間の空間を利用して作られた納戸のことを言う。  屋根裏部屋と言ったほうが昨今では分りやすいかもしれない。  高さがないから真っすぐ立つことはできないが、中腰くらいであればなんとかいけた。  めったに上ることはないが、消耗品などの在庫や日ごろあまり使わない物をしまっておくのに重宝しているのだ。  奥まった縁側にも中二階にも灯りはないから、懐中電灯をポケットに入れる。  不気味なくらい静かだった。  見慣れているはずの、縁側のガラス戸の向こうの、そうと呼ぶには狭すぎるほどの庭は、僅かな街灯と月明かりだけでなんだか不穏だ。  短い廊下の奥に、年寄りが上るにはいささか急すぎる梯子を見る。  今晩に限って、なんだかその場所だけに淀んだ空気が吹き溜まって見える気がした。  歩みが鈍くなる。  古くて歩くたびにギィ、ギィと軋む板床の音が妙に鋭く耳についた。  木製の梯子に手をかけて、頭上の天井裏へ続く闇を見上げる。 本当に電球の替えを買っておいただろうか。三千雄が亡くなる前に使い切ったんじゃなかっただろうか。 いや、三千雄が死んでもう二年近く経つ。その後も一度くらいは替えているはずだ。随分前のことであまりよく覚えていない。  梯子をぐっと握る。  別に今探しにいくことも無いんじゃないだろうか。  インスリンを打ってしまったし、先にご飯を食べてからでも遅くないのでは。  急いで行かなくていい理由を無意識に頭の中で作り出していく。  でも、こういったことは気づいた時にやってしまった方が面倒じゃない。  何を躊躇しているのか、ただ上に上がって替えの電球を取って降りて来るだけのこと。     数分とかからない。  由汰はそう自分に言い聞かせると一つ大きく頷いた。  よし、と気を取り直して下段に足を掛けたその時だった。  ガンガンガンガンッ―― 「な、なに――っ」  恥ずかしいほど両肩が跳ね上がる。  劈くような金属音。  恐る恐る振り返ると、夜の闇に紛れて、頼りない街灯に照らされた二つの丸がこっちを向いて光っていた。  ――猫!  白と黒の大きなぶち猫が庭の鉄柵の扉に飛び乗ってこちらを見ている。 「な、なんなんだ。……脅かさないでくれ」  バクバク鳴る胸を抑えながら、上擦った声でぼやく。 ぼやきながら項垂れて、脳裏に舞い戻ってきたものに舌を打った。 あろうことか思い出してしまった、このタイミングで。織部に見せられた少年たちの顔を。どこか人形のような、綺麗な顔立ちの。  本当に縁側を通って、彼らはあの鉄柵の扉から裏道に抜けたのだろうか。  項垂れた頭をもたげてハッとする。 縁側の窓を、開けっ放しにしたままだったことに今更になって気がついた。 今日もまた。うっかり過ぎるだろう。これだから――と、頭を振る。 とにかく、早く閉めなければ冷房が無駄になる。  じっとりと汗ばんだ手で急いで窓を閉めた。 鍵を閉めた指先が心なしか震えているように思える。  何を怖がっているのか。  得も言えぬ悪寒が背筋を走る。  今さっきまで、鉄柵上にいた猫はどこへ行ってしまったのか。  いつも以上に部屋の中が静かに感じて、思わず唾を飲み込んだ。  窓にしがみついて鍵をつまんだ状態で、中二階へと続く梯子を見上げる。  天井にぽっかりと真っ黒く開いた四角い穴の奥は、飲み込まれそうなほどに暗い。  にょろり、と、今にも生白い腕が闇から伸びて降りてきそうだ。  あの穴の奥を見たのはいつだっただろうか。  彼らが行方をくらました後、いや以前。 「まさかね……」  そう呟いて、中二階へと抜ける四角い穴が急に恐ろしくなって目をぎゅっと閉じて顔を背けた。  まさか――そんなわけない。  でももしも、彼らがあの鉄柵の扉から外に出て行っていなかったとしたら? 万が一にもこの家の中にまだいるとしたら?    それはもしかして中二階ではなかろうか。 「……そんなわけないだろう」  否定してみるものの、窓にしがみついたまま顔を中二階に向けられず由汰は立ち尽くしてしまった。  いないと頭では分かっていても、体が怖気づいて動けない。  大丈夫だからと自分に言い聞かせる。  あの織部がそう判断したのだ――かもしれない程度ではあったが――彼は鼻もちならない男だけど、きっと誰よりも鼻は効くような気がした。  彼が少年たちは裏庭から出て行った――かも――と言うならそうなのだ。  だから大丈夫。彼らはこの家のどこにもいない。  そうだ、替えの電球は明日朝起きたら探しに行けばいい。  カチカチするのは煩わしいが、今晩くらいはその調子で点いていてくれるだろう。  そう思ったら少し気分が落ち着いてきた。  空腹だから変なことを考えてしまうのだ。 「今日は魚でも焼こう」  中二階に意識が行かないように、わざと口に出して言ってみる。  少しだけ、後でインスリン注射の追加打ちをすればいい。  お握りに味噌汁に焼き魚。  それを食べたら今日はもう寝てしまおう。  そう決めて、由汰は足早に縁側を離れると台所へ戻った。 「そう言うわけだからね。見せたくても手許にないもんは仕方がない。悪いね、径さん」  朝っぱらから『径』のはす向かいにあるNKビルの警備室の窓口で、「やっぱりそうですよね……」と由汰は小さく項垂れた。  襟足の寝癖がまだ少しハネたまま直りきっていない。  洗いざらしの涼し気な麻混の白い綿シャツの長袖を肘まで捲り上げて、細めのジーパンに履き慣れた茶色の革靴、と言ったいつも通りの身なりで警備室の窓口を訪れたのはつい数分前のこと。  今朝は五時に目が覚めた。赤の他人が通り抜けたかもしれない家にいるのは、なかなか思った以上に落ち着かない。  神経がいつもより過敏になってしまい、昨夜は布団に入ってもしばらく寝付くことができず、寝ているのか起きているのか分からないような転寝を繰り返しているうちに朝を迎えてしまった。 朝一番に血糖値を測ってインスリンを打ち、六枚切りの食パン一枚と目玉焼きに味噌汁といった毎朝変わり映えしない朝食を手早く済ませた。 洗濯機と炊飯器を仕掛けた後、歯を磨いて髭を剃り、髪の毛を整える。 いつだって、少しばかり癖のある猫っ毛を整えるのが厄介だった。 暴れ馬のような寝癖をお湯とドライヤーを駆使して直す作業は、もしかすれば血糖値を測定する作業やインスリンを打つ作業なんかよりも面倒な作業かもしれない。 米が炊けると冷凍用におにぎりを握り、荒熱を取っている間に洗濯物を干し、軽く掃除を終えた後に荒熱の取れたおにぎりをラップに包んで冷凍庫へ放り込む。  そこから開店時間まで、だいたいいつも作業場にこもるのだが、例の少年たちのことが気になりすぎて朝から日課になっている友禅染めが、今日はまったく手に着かなかった。  お得意様である――三千雄の代からの――丸山から、姪っ子さんの出産祝い用にと頼まれている金太郎のタペストリーを仕上げなければならないのに。  生まれる前に渡したいからと注文を受けたのが今月初め。  あとは地染めと金太郎の前掛けに描かれた「金」の文字を仕上げるだけなのだが、どうも少年たちの所在がはっきりしないものだから、そのことが妙に気になりすぎて、今朝は机に向かったものの色作りに身が入らず早々にやめた。 こうなったら自分の目で確かめるしかないと、思い切ってはす向かいのNKビルの警備室を朝から訪れたのだ。 少年たちが、『径』に入って行く映像を捕らえた防犯カメラがここにある。  事情を説明してその時のビデオを見せて貰えないかと交渉しに来たのだが、案の定テープは証拠品として警察に押収されてしまい手許にはないのだと言う。  自分の目で確認すれば少しは納得できるかと思ったのだが。 「ちなみに、うちが映り込んでるのってどのモニターです?」  由汰は警備室の窓口から少しだけ身を乗り出して、モニターに映し出されているいくつかのカメラの映像を指さした。  これですよ、と教えられた映像は確かに右上の方に僅かだが『径』の入口の足元辺りを映し出している。  例え足元だけで顔の確認ができなくとも彼らだと立証できるだけの映像が、ここに至るまでの前後の防犯カメラに映っていたということなのだろうか。 「二十四時間年中無休で稼働してるんですか?」  部外者である由汰が、朝っぱらから図々しく他社ビルの防犯カメラについてあれこれ訊くのへ、不信な顔一つ覗かせることなく初老の警備員は快く応じてくれる。  ご近所とあって面識があるからかもしれない。 「防犯カメラってそう言うものでしょう? まあ、十二時間ごとにテープチェンジするから、一、二分はブランクがあるだろうけど」 「一、二分?」  由汰は窓口に手をつくと体を少しばかり押し込んだ。 「テープチェンジっていつといつですか?」 「朝の八時と夜の八時」 「じ、じゃあ、あの日も夜の八時にテープチェンジを?」 「もちろん」 「きっかりに?」 「あぁ、どうだったかな。その辺も前後一、二分てところだな」  やや興奮気味の由汰に反して応じる初老の態度はいたって穏やかだ。 若造があれこれ詮索して、探偵ごっこでも楽しんでいるのだろうと、温かく見守るような眼差しだ。  二十時にテープチェンジしたとなれば、仮にロスタイムが一分あったとしたら、その僅かな空白の時間に彼らが『径』を出て行ったということは考えられないのだろうか。  唇をいじいじ弄りながら眉を詰めて素人頭で考えていると、「おや?」と初老がモニターを見ながら声をあげた。

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