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「『径』さんとこ、どなたかいらっしゃったみたいだよ」 「え?」  見ればゾロゾロと複数の物々しい足が大戸口の前で佇んでいる。  警備室内の時計に目をやった。  ――八時五十分。  こんな朝から今度は誰が? いささか、いや、正直に言えばだいぶ、気分が重くなって胡乱な眼差しをモニターに投げていると、 「『径』さんとこも、こう言っちゃなんだが随分古い家だし防犯カメラくらいあってもいんじゃないかな?」  言われて苦笑した。 「ですね。考えておきますよ。朝からすみませでした」  気の良い警備員さんにお礼を告げてビルを後にする。  確かに、そう言ったセキュリティ対策もそろそろ真面目に考えなければいけないかもしれない。 「現場検証……ですか?」  令状を頭の横でぴらっと提示してみせた、相変わらず目許に油断ならない笑い皺を刻んだ長谷川が、懐にそれをしまいながら頷いた。 「昨日の今日で申し訳ないんですがね」  NKビルから戻ると、紺のヘアキャップに上下紺の作業服を着たテレビドラマでもお馴染みの、鑑識官を数名引き連れだ長谷川が大戸口の前に立っていた。  別に気にしているわけではないが、ざっと確認するかぎり今朝は織部の姿はないようだ。  長谷川は書店に足を踏み入れるなり、令状片手にこれからこの家の中を現場検証すると告げた。  馴染みがありそうで無いその単語に、由汰の顔が怪訝に曇る。  腕組みをしてレジカウンターに寄り掛かりながら低い声で尋ねた。 「それって、やっぱり僕を疑ってるってことですよね?」 「まさかまさか! 違いますよ、南さん。彼らが本当に裏口から出て行ったのか検証するためのものですから。そう構えないでください」  大仰に笑ってみせるも、腹の中では何を考えているのか分からない。  あわよくば由汰が犯人だと言う証拠を見つけて、早々にお縄にできたらいいのにと思っていないとは、間違っても言わないだろう。  少年たちが家の中を通り抜けたことで自分は大分神経質になっていると言うのに、その上更に鑑識なんてものを導入されてあちこちプライベート空間をいじられるとなっては頭も痛くなる。  黙って怒りと不快な気持ちを露わにしていると、 「ごく一部ですから。彼らが見ていた書棚と縁側から裏庭にかけてを重点的に。あなたの居住空間を隅から隅まで調べるわけではないんです」  見透かしたように長谷川が言う。長谷川は人当たりもいいし対応も丁寧で悪い人じゃないのだろうけれど、その笑い皺は人が良いだけでできたものだけではないだろう。  由汰は長谷川に目顔だけで分かったと伝えながら壁掛けの時計をちらっと見やった。  ――九時五分。  朝食を食べてからそろそろ二時間が経つ。ぼちぼち血糖値を測定しないといけない。  きちんと血糖値が標準値まで下がっていれば問題ないが、下がっていないようであればインスリンの追加打ちが必要だ。  また逆に下がりすぎているようなら糖分を補食する必要がある。 「店は十時から開店なんです。それまでに終わらせて帰ってもらえますか」  取り繕う気もない抑揚のない低い声は、透明度の高いグリーンの目をした由汰を冷たく感じさせた。  とは言え、本当に彼らが裏庭から出て行ったのか否かはっきりするなら由汰にとっても望むところだ。  その調査結果を容疑者一である由汰に、長谷川たちが教えてくれるかは別の話だが。 長谷川たちは、約束の時間を十分過ぎたころに作業を終えて帰っていった。  昼過ぎ。  例のごとく血糖値を測ってからインスリン注射をし、昼ご飯を適当にすませた由汰は、カウンターに広げた新刊リストを見下ろしながらもう月末かと深い溜息を零した。  帳簿の入力を後回しにしていたことを思い出したのだ。  今月は丸山に頼まれた金太郎のタペストリー以外にも神田すずらん通り商店街に店を構える割烹料理屋『やや亭』の暖簾の仕上げも重なって、寝る前にする領収書や請求書の入力がおろそかになっていた。  以前は入力も全て税理士事務所に頼んでいたが、少しでも依頼料を節約しようと入力だけは自分でやるようになった。  昨年の十月に糖尿病を発症した時に、死ぬまで一生使わなければならないインスリンを含む医療費を考えたら、少しでも節約しなければならない。  自分はこの先一生独り身の可能性が高く、いつ合併症を起こして足や目が不自由になるとも限らない。そのためにも出来るだけ貯金はしておきたかった。 ただ、やはり店を一人で切り盛りするには何かと時間に縛られて不自由なことも多く、平多昌子だけにはパートを続けてもらっている。 そうかと言って、今の生活が困窮しているわけではない。幸いにも本屋も染め業も順調で、健康管理以外は何不自由なく生活していけている。 それに、昌子は三千男の代から――由太がここへくる以前から――『径』でパートをしていおり、身内のいない由太にとって信用できる唯一の人でもある。だから、店を用事で留守にする時など、昌子がいるととても助かるのだ。  新刊リストに溜息を吐きながら、税理士に渡すデータ入力のことなどを考えていると、奥の方から若いインテリ風の男が、本を片手に向かってくるのが見えた。 「いらっしゃいませ」  新刊リストを端にのけながら、客から受け取った本の題名に一瞬目が留まる。  ――『視覚・眼科臨床用語辞典 第五版』。  昨夜、織部に「手が震えているぞ」と指摘された時、押し戻そうとしていた医学洋書だった。  けして安くない医学洋書の翻訳本をスキャナーでピッとやりながら、雄々しい三白眼が脳裏をよぎる。  大きな手で掴まれた腕が、今にも火照りだして由太の胸を悪戯に疼かせそうだ。  レジを打ち込んで金額を客に伝えると、余計なことを考えそうで、由太はサボっていた帳簿入力のことに再び意識を集中することにした。  今日あたりまるまる先週一週間溜めてしまった分をいよいよ入力してしまわないといけないなと、頭の中の三白眼から神経を逸らすように、客からお金を受け取った。 「昌子さん……困るよ」 「そんなこと言わないで。ねえ? 一度ゆっくり考えてみてちょうだいよ。悪い話じゃないと思うのよ。少し年はいっているけど見た目はとっても綺麗だしお料理も上手だって話よ」 「そう言う意味じゃはなくて……」 「あら! じゃあなに? バツイチだって言うのが問題?」  十三時からパートに来た昌子が、客が引いた隙に封筒からさっそうと抜き取った真っ赤なビロードカバーのアルバムをレジカウンターの上に広げて、挑むような眼差しで由汰を見上げてくる。  白髪染が取れ掛けているせいで、生え際が茶色く変色し始めている。緩く巻いたボブヘアーが崩れるのをしきりに気にしながら五十代半ばの、由汰と揃いのベージュのエプロンをした昌子は、押し売りでもするように目をギラギラさせていた。  目力で昌子に勝てる者は、おそらくこの界隈では誰もいない。  世話好きな昌子がパートに来るなり「あとで大事な話があるのよ」と言われた時から嫌な予感はしていたのだが。  昌子はカウンターに広げた写真を指さしながら、茫然と立つ由汰に身を乗り出す勢いで熱弁をふるう。 「バツイチって言っても相手の方に問題があって、紗栄子さん自身に落ち度があったわけではないのよ」  声をひそめて「……酒乱だったんですって」と付け加える。ご丁寧に口許に片手を添えて。 幸い店内には客は一人もいないのだけれど。こう言ったところが、昌子はお茶目だ。  はあ、と生返事を返しながら由汰はこめかみをぽりぽりと掻いた。  昌子にはゲイであることをカミングアウトしていない。このタイミングでカムアウトすることが正しいのか測りかねてなんとも曖昧に口籠る。  まさかお見合い話を持ち掛けられるとは。唐突な上に予想外すぎて対処に悩む。 「三十四歳だけど今の時分、子供を産むにはまだ充分に若いでしょう? それに年上女房ともなればきっと由汰くんの病気についても献身的にサポートしてくれると思うの」  昌子の父親と三千雄は古い友人ということもあり、近所に住んでいた昌子も昔から三千雄とは親しかった。由汰とも十五年以上の付き合いになる。  ゆえに昌子は由汰のことを「由汰くん」と名前で呼ぶ数少ない知人の一人だ。  由汰の母親より年長の昌子は、自分の娘と由汰が同年代ということもあってか時々母親のようだ。いや、時々ではなく、まさに母親代わりのようだった。 「気遣ってくれるのは有り難いけど……」 「ノー! ノーよ! 由汰くん」  由汰の言葉を遮って昌子のピンと伸ばされた人差し指が顔の前で黙れと主張する。 「昨日すれ違ったお客さんからたまたま聞いたのよ。昨日の由汰くんはいつも以上に顔色が悪かったって。真っ青だったって。忙しさにかまけて低血糖にでもなったんでしょうけど、もしも誰もいない家の中で倒れてみなさいよ。孤独死よ! きっと発見するのはわたしよね。パートに来ても店が開いていないことにハッとしてそこの大戸口のガラスを割って中に入って居間で倒れて心臓の止まった由汰くんを……」 「待って待って! 昌子さん、待ってよ。大げさだって」 「大げさじゃないわよ。よくある話なのよ。みちさんだって、亡くなった時に由汰くんがいたからよかったけど、もうこの家にはあなたしかいないのよ」  分かっている。それについては自分でも当初よく考えていたことだった。 言われなくても自分がよく分かっているのだ。  寝ている間に低血糖に陥ってそのまま目覚めることなく息を引き取ってしまうケースだって少なくない。  怖い。夜眠ることが怖くて怖くて気がおかしくなりそうだった時もある。不安で眠れない夜が続いてついに心療内科で睡眠導入剤を処方してもらうことになったのだから。

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