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 昌子も心配して言っているのは分かっているが、由汰にとってその気遣いこそが煩わしかった。  由汰の病気を知ってから、昌子には愛情にも近い哀れみの表情が常にあり、それがかえって由汰を息苦しくさせている。  その哀れむような表情が、自分が心底救いようのない病人なのだと思わされて嫌だった。  だから、時々、昌子を故意に遠ざけることもある。  昌子と言えば、そんな由汰の気持ちを少なからず察しているようだったが、一向にめげる気配はない。  毎日、カーボカウントを面倒がって、質素で栄養の偏った食事ばかりをしている由汰を見かねて、よければ夕飯を作っていこうかと申し出てくれた昌子を断ったことがある。  居住区にいても、その昌子の哀し気な表情を目にするのは正直辛い。いや、苦しい。自分が。気を抜いてほっとできない。  申し出を断ってからは、それでも懲りずに ならばと、定期的に手作りの惣菜を差し入れしてくれるようになった。  もちろん、カーボカウントされたメモも添えて。  由汰がどんな態度を取ろうとも、昌子の態度は変わらない。  母親に構われた記憶がない由汰にとって、過保護とも感じてしまう昌子の親切心をありがたいと思うもののどう処理していいのか戸惑う部分も多い。  いい歳をして母親への甘え方の一つすら知らない。とは言え、昌子に甘えるようなことはしないが。と、言うよりできない。いや、露骨な表情や態度をとっている時点で、既に甘えていると言うことになるのだろうか。  母親と言うのは子供に反発されようが嫌がられようがそんなことものともせず、こうして嫌な顔一つしないで変わらぬ態度で世話をし続けるものなのか。  昌子には三千雄の葬式の時にも世話になったし、由汰の入院の時にも世話になった。 一人ではめげてふさぎ込んでしまったかもしれない。  口に出しては言わないが、いてくれて良かった。  本当はとても感謝している。  側に昌子のような人が居てくれてよかったと心底思うのだが、あまり過保護にならずにできれば黙って見守っていてほしいと思うのは由汰の我儘なのだろう。  正直なところ、もう少し放っておいてほしい。  顔を合わせるたびに、大丈夫? 気分はどう? 血糖値は安定してるの? ご飯はきちんと食べているの? 時間はちゃんと守ってる? 補食は持った? インスリンは持った? 病院には行った? ああしなきゃダメよ、こうしなきゃダメよと言われると元気であっても欝々とした気分になる。  嫌いじゃないが、鬱陶しい。 子供じゃないんだと、その都度、内心で腹をたてる由汰は、充分子供と同じだ。  自分から求めた時にだけ応えてくれさえすればそれでいいのに。  そう思うのは、きっと、おそらく、病気のせいで卑屈になっているから――本当に? それこそ甘えだろう。  いや、しかし、見合いはもってのほかだ。  誰かと一緒に住むなんてことを考えただけで疲れる。母親と暮らしていた時もそうだった。  例外を上げれば、心落ち着いて暮らせたのは三千雄との生活くらいのものだ。  三千雄は、どこの誰とも知れない会ったばかりの由汰をこの家に快く迎え入れてくれたのだが。  三千雄との生活は今までに得ることできなかった安心感を由汰にもたらしてくれた。  初めてもたらされた存在肯定とでも言おうか。ここに居ていい、そう思わせてくれた存在だった。  自分でもよく分からないが、出会った時から由汰は三千雄を無条件に信頼していた。  そんな三千雄も二年前に心不全で亡くなってしまったのだが。七十八歳だった。  昌子は腰に両手を当てて客が誰もいないのを良い事にキンキン声を張り上げる。 「それともなに?! もしかして由汰くん良い人でもいるの?!」 「え」 「ねえ、いるの?! いるのね?!」 「い、いないよ、そんな人。見ればわかるでしょ?」 「ならいいじゃないのよ。ねえ、お願い! これじゃみちさんも心配であの世でおちおち昼寝もできやしないわ」 「昼寝って……。僕は……」  本当に大丈夫だから、と言おうとしたその時、ガラガラと大戸口が開いて会話が中断された。  救いの神様、内心で呟いたのも一瞬。 「あら! 兼子さんいらっしゃい」  昌子が、往年のアイドルでも見つけたかのように花のような笑みを満面に浮かべて手を打つ。  神保町で翻訳の仕事をする傍ら海外のアンティークや輸入雑貨の店を構える兼子孝也(かねこたかや)が夏の暑さをもろともしない爽やかな笑顔で片手を上げながら入って来た。 「やあ昌子さん。今日の髪型も一段と素敵だね」  歯が浮くようなセリフも彼が言うと様になる。  四十代半ばとは言え、長身でスラッと背筋の伸びた兼子は実年齢以上に若々しく見えて、どこかヨーロッパの貴族を彷彿とさせた。  涼し気な薄グレーの開襟シャツと白の綿パンがよく似合う。  兼子の本業はフランス語の翻訳家であり通訳や執筆業で生計をたてていると聞いた。  書籍のリストを確認して気づいたことだが、どうやら知らず兼子が翻訳した書籍を『径』でも数冊扱っていたらしい。同時に二つ向うの通りでは住居を兼ねた北欧の輸入雑貨やアンティークを扱ったショップを片手間に構えている。  ショップの前を通りかかったことは数度あっても立ち寄ったことはまだなかった。  翻訳業の傍ら半ば趣味の延長上だと言うショップは昌子の話を聞けばなかなかセンスの良い物ばかりで評判は上々らしい。  基本ネット販売が主流らしく、店を開けるのは週に二、三度だとか。それも、わりと気まぐれで客からの要望があれば都度融通はきかせてくれるらしいが。  年に何度か買い付けのためヨーロッパへ出向くと言う。  由汰からしてみたら、自由気ままな、と表現したくなるライフスタイルだった。 「いらっしゃい、兼子さん」 「やあ、南くん。今日は随分と顔色がいいね。この暑さで血糖値も安定しなくて大変だろう? 今日も外は蒸し暑いよ。外出する時は気を付けた方がいい。出かける前に荷物をきちんと確認して」  チョコや飴玉の補食やインスリンが入っているかどうか、いざと言う時に慌てないようにと続ける。  ――また始まった、と内心でため息交じりに頭を振った。表情はあくまでも笑顔で、実際には首も振ってはいないが。  兼子も昌子と同様、何かにつけて小言が多い。年が離れた弟くらいに思っているのかもしれないが、顔を合わせると子供にでも言い聞かせるようにああだこうだと言ってくる。  兼子は人当たりもよく気さくでハンサムで、大人の余裕というものを兼ね備えているため女性からの受けが非常にいいのだと昌子が常々言っている。  事実そうなのだろうと由汰も思うのだが、ただ、由汰のことなら何でもお見通しと言いたげな口ぶりや、時折見せる馴れ馴れしい保護者的な振舞いがどうにも苦手だった。  兼子との付き合いが、まだ日が浅いせいもある。  つい三ヶ月前に、銀座の百貨店で行われたインドの伝統的な染物でウッドブロックプリント展を見に行った時に、その展示場で兼子と出会ったのだ。  ウッドブロックプリントとは、インドの染物で正方形の木面に花や鳥など様々な模様を彫り、その彫った部分に色をつけ判子のように布に塗布していく技法のことを言う。  イギリスにも似たような染物があるが、インドのものはエキゾチックでかつ上品な雰囲気がありなかなか一見の価値ありだ。  その展示場で不運にも具合の悪くなった由汰をケアしてくれたのがその場に居合わせた兼子だったのだ。その上、偶然にもご近所さんだったこともあり不本意ながらも家に送ってもらったのだ。  以来、こうしてふらっと度々『径』に立ち寄るようになった。  面倒を見てもらったこともあり、顔を見るたびに体調についてあれこれ訊かれるのは仕方がないのかもしれないが、悲劇的な病ではあっても、毎日がそう最悪ではないことをいい加減分かって欲しかった。  襟元を正して、なんとか口許に笑顔を作る。 「それより、今日は何か探しものですか?」 「いや、この先の喫茶店で遅めのランチを食べていたんだけどね、ここを通り掛かったらなにやら楽しそうに話し込んでいるのが見えてつい立ち寄ってしまったんだ」  兼子とはそういう男なのだ。特別ここで何かを買うわけでもなくふらっと立ち寄っては世間話をして帰って行く。さすがに毎日とは言わないが由汰の様子見とでも言うようにそれでも週に何度かは訪れる。  頻繁に顔を出すものだからパートの昌子ともすっかり仲良しだ。 「おや? なんの写真? これはまた綺麗な女性だな」  ふわっと兼子の顔が綻ぶ。女性だったら一瞬にして失神しかねない甘い笑みだ。 「あら! 解かる? とっても綺麗でしょう? わたしもそう思うのよ。由汰くんの為にと思って持ってきたお話なの」 「お見合い?」  形の良い両眉をくいっと上げた兼子が横目でちらっと由汰を見る。 「ええそうなの。だって由汰くんだっていい加減もういい歳だし、それに病気のこともあるでしょう? そろそろ身を固めたほうがみちさんもわたしも安心できると思って」 「でも南くんはお見合いなんてしないでしょう」 「そんなことはないわよね?! 考えてくれるって言ったものね?!」  縋るように見つめられて由汰はとうとう大きく溜息を吐いた。 「言ってないよ、昌子さん。僕は困るって言ったでしょ?」  年甲斐もなく子供のようにぷうっと頬を膨らませた昌子を見て兼子が可笑しそうに笑う。 「無駄だよ、昌子さん。彼は誰かと一緒に住むなんてことできっこないんだから」  どういうことだと眉間に皺を寄せる昌子を見やってから、意味ありげな視線を由汰に向ける。 「彼は人一倍警戒心が強いんだよ。――それより近頃この辺を賑わせている事件のことは知ってるかい?」  兼子が嫌気がさしそうなお見合い話から少年たちの失踪事件へと話題を変えた。

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