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変えてくれたとは言え、失踪事件の話題も由汰にとっては気の重い話だ。
「もちろん知ってるわ。そうだった! そう言えばここにも刑事さんたち来たんだったわね? 青物市場のご主人が言ってたもの。あら、わたしお見合い話より先にその件について訊くべきだったわね」
大丈夫だった?
と、不安気に両手を合わせながらさも心配気な表情で、けれど興味津々なのだと言うように目がギラギラしている。
この目力には、本当に誰も勝てない。
色々とあれこれ突っ込まれるのも面倒だから、由汰は適当に頷いてみせた。
「それにしても近所で失踪事件だなんて、なんだか怖いわ」
娘のことでも考えているのか、酷く不安気に目を伏せる。
兼子がすかさず昌子の腕をそっと撫でた。
「大丈夫だよ。日本の警察は優秀だからすぐに犯人を捕まえてくれる。心配なら娘さんに電話でもしてみたらいい」
そう言って安心させるように肩を掴むと、そのままゆっくりと腕を撫で下ろした。
意識して見れば、違和感を覚えるような手つきだ。
だが、ほだされたようにポカン顔の昌子が、それに気づくことはない。
もちろん由汰も。
色男はどこかスキンシップの取り方も日本人離れしているものなのか、と思う程度だった。
はっと我に返った昌子が急にエプロンのポケットから携帯電話を取り出して、
「あ、わたし娘に電話しなければだったんだわ!」
いけない忘れてた、と慌てた様子で書店を飛び出して行った。
何事だと目を剥いていると隣で兼子がクスクス笑っている。
「あの人も忙しいね。そうだ、知ってるかい? 今週の日曜日まで銀座の百貨店で加賀友禅の花嫁暖簾展を開催しているんだよ」
「ええ、そのことなら駅のポスターで」
以前、兼子と初めて会った銀座の高島屋で加賀友禅の花嫁暖簾展がやっていることは知っている。時間があれば行きたいと思っていたところだ。
花嫁暖簾とは、花嫁が嫁ぎ先の家の仏間に掛けられた華やかな暖簾をくぐることで、その家のご先祖様に挨拶をすると言う習わしから花嫁暖簾と言われている。加賀、能登、越中あたりで古くから伝わる伝統的な風習だそうだ。
大戸口から出て行った昌子を見ていた兼子が、少し長めの髪の毛を撫で上げながらゆっくりと由汰の方に向き直る。
由汰もそこそこ身長は高い方だが、兼子は目線一個分さらに高かった。
いつも笑んでいるような細い目は、どこか相手の視線を捕らえて離さなくさせる。じっと見つめられることで心躍る女性も多いだろうが、由汰は相手の心に容赦なく入り込んでこようとする兼子の眼差しがどうも苦手だった。
これが女性だったら瞬殺でほだされてしまうところなのだろうが。あいにく由汰はゲイで男で、女性が好む男の色気には興味をそそられない。いや、兼子の放つ色香自体が由汰の好みではないのかもしれない。
「その目、今日も凄く綺麗だね」
二人きりなると決まって言う、兼子以外が言えば確実に歯の浮くセリフ。その言葉に他意があるのかないのか由汰には分りかねたが、もしもあったとして、けれど残念ながらその言葉に由汰がほだされることはない。
勝手に申し訳ないような気持ちがよぎるたびに、綺麗だと言われた目を伏せたくなる。
一瞬の気まずい空気の後、兼子が何気ないしぐさで由汰の片手をスッとくみ取る。
由汰は反射的に握られた指先を強張らせた。
兼子はきっとバイセクシャルなのだと由汰は思う。人を見る洞察力に長けているのか、兼子は由汰がゲイだとカムアウトする前にそれを言い当てた男だ。
その性的指向を知ってか知らぬが由汰に対しても妙に物理的なスキンシップが多い。けれど、この歳にして経験値ゼロに近い由汰にとってはそれがいささか悩みの種だった。
気づけば体と体の距離も拳一個分くらいに近くなっている。
見上げた視線がすぐそこだ。
「兼子さん……」
「どうだろう。その展示会、もしよければ私と一緒に行かないかい?」
「一緒に?」
「今度の日曜日は第一日曜日だしお店もお休みだろう? ほら前に先代の三千雄さんともよく展示会に行っていたと言っていたじゃないか。なら是非、私とも一緒に見に行こう」
見下ろしてくる穏やかでいて、どこか悪戯に人を惑わすような熱のこもった眼差しに、危うく吸い込まれそうになる。
三千雄は、この書店を亡くなった奥さんと営みながら、その傍らで友禅染めを生業にしてきた人だった。
由汰は十五歳の時から三千雄に住み込みで友禅を習った。始めから興味があったわけではないが、その作業を側でずっと眺めていたらなんだかやってみたくなったのだ。思った以上に友禅の世界は奥が深く、由汰はその魅力にすっかり魅了された。
そんな由汰に才覚を見出したのか、三千雄は勉強と見聞を拡げるためにと積極的にいろんな展示会に連れて行ってくれたのだ。
「今度の日曜日、いいだろう?」
「……あの」
見に行くなら一人で何に煩わされることなくゆっくり見たい。
一緒に行こうと誘われて、応えはノーなのになんだか頭が勝手に縦に頷きそうになって由汰は眉を顰めた。握られた手がねっとりと熱くて気持ちが悪い。
頭がぼーっとし始めて目を凝らすと視界が白く霞む。
言葉がうまく紡げず思わず唇を噛みしめると、靄を振り払うように目を閉じて頭を振った、その刹那、カクンと膝から唐突に力が抜ける。
「――――」
世界がひっくり返る、と思った瞬間、とっさに兼子に掴まれれていた手を放して寸前でレジカウンターにしがみついた。
「大丈夫かい?!」
驚いた兼子の声にハッとする。
「ごめんね! ――あ、もしかして低血糖?」
言われて壁掛けの時計を見た。
ごめんね? の意味が引っかかったが。
「お昼ご飯食べてから測定はしたかい?」
「……いえ」
そろそろ測定の時間ではあったが、食後二時間以内に低血糖になったことは今のところないのだが。
ぼーっとしていた頭も霞みがかった視界も今ではすっかりクリアだ。
おかしいなと思いながらも、兼子の前でまたも失態を晒してしまったことの方に気を取られて由汰は落胆ぎみに肩を落とした。あれこれ気遣われるのが嫌なのに、ふらついていては元も子もない。
でも、今のはいったいなんだったのか。
低血糖のそれとはまったく違う、睡魔にも似た。
あれこれ思案してみるものの、うまく形容できなくて諦める。
「展示会の件ですが……日曜日の予定がまだ立たないんですよ」
もちろん見に行く予定ではいる。
けれど、大好きな友禅染めを見ている間くらい日常から離れたかった。
「だから今回は……」
一緒に行けないと言外に匂わせれば、そこは兼子も大人の男だ、言わんとしていることを察してくれたようで、それ以上しつこく誘ってくることはしなかった。加えて言えば、どことなくホッとしている風にも見て取れたが、それを口にする前に、大戸口がガラガラと開く。
顎に人差し指を当てながら思案顔の昌子がしかめっ面で戻ってきた。
「電話、大丈夫だった?」
由汰が聞けば、項垂れながら小さく首を振る。
「やあね。わたしもう年かしら。娘に電話した途端、なんで電話したのか要件をさっぱり忘れちゃったのよ」
わたし、アルツハイマーかもしれないわ、と泣きそうな顔で見上げてくる少女のまま大人になってしまったようなあどけない表情の昌子に、由汰は思わず苦笑した。
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