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兼子が帰ってかららも、昌子のお見合い談義は底をつかず、由汰はその話題から逃れるために、どうにかこうにか言い繕って店を出た。 仕方がないので、急ぎでもない用事を散歩がてら片付けるかと。  銀行と郵便局で幾つかの手続きを終え、一時間半ほどで『径』に戻って来ると、ちょうど昌子がレジの対応をしているところだ。  由汰は、軽く手を上げて昌子に帰宅を知らせると、居間に万が一のためのインスリンや補食用の飴玉、ブドウ糖の入ったバッグを置いて、再び店に戻った。  戻ると、昌子が何やらメモ片手にお帰りなさいと小走りで歩み寄ってくる。 「由汰くんがね、出掛けている間に織部さんて方から電話があったのよ。じきに戻るって伝えたら折り返し連絡いただけますかって。はい、これ織部さんて方の携帯の番号」  なんの用だろうかと、内心で眉を顰めながら昌子に礼を言ってメモを受け取った。  今朝は長谷川一人が来ていたが。 「どなた?」 「ほら、聞き込みに来た例の刑事さんだよ」  そう言うと昌子の顔が僅かに曇る。 「ねえ……」  と言いかけて黙り込む。 「その事件て……いえ、なんでもないわ。嫌ね、あなたもう三十一歳だものね」  わたしったら何を心配してるのだか、とどこか狼狽えたような笑みを浮かべて、由汰をと言うよりも己を安心させるためと言った様子で由汰の両腕を何度も擦ってみせた。 「いつまでも十五歳のままじゃないものね」  意味深とも意味不明ともつかぬ言葉をもごもごとと独り言のように呟いて、そそくさとレジカウンターへ戻って行く。  気になって思わず呼び止めた。 「昌子さん」 「ねえ、それより」  と、遮られてしまう。 「織部さんて方、由汰くんになんの用かしら?」  振り返った昌子は、いつもの昌子に戻っていた。先ほどの意味ありげな言動はなんだったのか。  気になりはしたが、客が本を片手に歩いてくるのを見て、今はいいかと諦めた。 「なにか聞き忘れたことでもあったんじゃないのかな。心配することじゃないよ」  そう言うと、数秒眉をしかめて考え込んだ昌子が、ぱっと眉を上げると、「そうね。わかったわ」といつもの笑顔でレジへと去って行く。  ちらっと壁時計を見ると十六時半を少し回ったところだ。あと三十分もすれば昌子のパートタイムが終了する。昌子のシフトは月曜から金曜の十三時から十七時までだった。  レジから、昌子が由汰に受話器を作った手を耳にあてる仕草をしてよこす。  電話してね、のサインに、「分かったよ」と口パクだけで応えた。  夜にでも、仕事が終わったあとに。  今日も一日滞りなく仕事を終えると、レジを締めて、在庫確認と注文の確認をしてから居間にあがった。  昌子が帰る前に今日は忘れず縁側の窓を閉めたこともあり、いつも以上に居住区の方は蒸し暑さがこもっていて、上がるなり全身にじわっと一気に汗がにじむ。  意の一番にエアコンのスイッチを入れて、そのまま居間と地続きになっている作業場の襖を明けるとそちらの電気を点けた。  これでなんとか居間にも明かりが届くので、不自由なくご飯が食べられそうだ。  レンジに冷凍庫から取り出したおにぎりを一つ放り込んで、朝まとめて作っておいた味噌汁の鍋を火にかける。  昨夜多めに焼いておいたサバの塩焼きを冷蔵庫から出しておく。  それから人差し指の先で血糖値を測ってから、ペンタイプの注射で脇腹にインスリンを打ち込んだ。  だいぶ部屋が涼しくなってきたところで台所に立ったまま手早く夕飯を済ませるとそのまま風呂場に向かった。  向かう前に居間のちゃぶ台に投げておいたメモに目をやってから時計を確認する。  二十一時を少し回ったところ。  急ぎの用事であったなら織部から再度催促の電話があったはずだ。それが無かったと言うことは、きっと大した用ではないのだろう。ならば、構わず先に汗を流したい。  シャワーだけで風呂を済ませた由汰は、Tシャツにスウェットパンツという姿で頭をタオルで拭きながら、ちゃぶ台のメモをつまみ上げた。  随分と由汰に対して当たりの強かった織部を思うと、折り返し電話をする気分も知らず重くなる。  あの織部が由汰に向けた辛辣な態度は、はたして容疑者である自分に対してだったのか、ゲイである自分に対してだったのか。  いずれにせよ、理不尽な物言いについ腹を立ててしまった自分自身も大人気なかった。そうかと言って、それを謝るつもりは毛頭ないのだけれど。  メモを睨み付けていてもどうにかなるわけでもなく、タオルをちゃぶ台に放るとやおら諦念めいた溜息を吐く。  気は進まないものの、このまま無視もできず、しぶしぶ携帯電話に手を伸ばす。  織部はまだ仕事中だろうか。  出なければそれまでだし、留守電に繋がれは名乗るだけ名乗って切ってしまおう。  あとは、必要であれば向こうからまた連絡がくるだろうから。  けれど、予想に反して電話は2コールで繋がった。 『織部だ』 「南です」  通話口から聞こえた低くて落ち着いた声に、心なしか由汰の耳が緊張する。 『……遅かったな』  腕時計でも確認したのか。少しの沈黙ののち、織部がそう告げてくる。 「急ぎだったのなら、そう伝言してくれればよかっただろう」  分かっているのに織部相手だとどうも喧嘩腰になってしまう。  だが、その言い回しに気分を害した気配はなく、逆に軽く鼻で笑われてしまった。 『現場検証の後、長谷川から何か注意事項はあったか』 「特になにも」  そう答えている間にも電話の向こうで車の行き交う音が聞こえてくる。 「外?」 『ああ。――少し事件について色々噂が立ち始めていてな。もしかしたら興味を持った輩がそっちに行くかもしれない』 「記者とか?」 『記者もそうだが、こういった刑事事件にロマンを抱いて記者まがいなことをして楽しむマニアみたいな連中もいる。危害を加えることはないだろうが、昨日俺たちがお前に話した事件内容や詳細をあれこれ話されると困るんでな』  口外するなと念を押すための電話だったと言うわけか。 「言われなくても、あれこれ言い回るつもりはないよ」 『ならいんだが』  通話口から聞こえる織部の息遣いが、奇妙に鼓膜を震わせてどうも由汰を落ち着かなくさせた。 「話ってそれだけ?」  早々に話を切り上げて電話を切ろうとまとめに入る。 『そうだな。それに、様子も見ておきたかった』 「様子――」  なんのことだと怪訝に眉を寄せた時、バンバンバンバンッと店の大戸口が乱暴に叩かれて思わず体が跳ね上がった。  反射的に携帯を両手で握りしめると、笑いを含んだ織部の低い声が通話口から漏れてくる。 『俺だ』 「なに?」 『俺だよ』 「……えっ?」 『一部のマニアとやらがさっそく押しかけてきたとでも思ったか』 どこか揶揄うような織部の声音に、由汰は一瞬でもそう思ってしまった自分に舌打ちしながら、上がり端の引き戸を開けた。 店の電気は点けずに靴だけを履く。  大戸口の前で佇む大柄な影を確認してから戸を開ける。  見下ろしてくる三白眼を睨み上げながら、由汰は携帯電話を切った。 「なんの真似だ。来るなら来るって言ってくれれば」 「たまたま帰る途中だったんだ。そのタイミングで電話を掛けてきたお前が悪い」 「僕が悪いって」 「入るぞ」 「え、ちょっ、ちょっと勝手に困る! 何時だと思ってるんだ」  咎める由汰を背に、 「今時の子供じゃ、まだまだ起きてる時間だろ?」  言いながら無遠慮に店を通り抜けて、上がり端に腰を掛けると長い足を持て余しぎみに組んで後ろ手に両手を付いた。 「なんだ、随分と暗いな。本当にもう寝るつもりだったのか?」  居間の電気が消えていることが不思議に思ったのか、後ろに両手をついたまま顎を上げて天井を見上げる。  由汰はその質問を無視して、不機嫌そうに溜息を吐きながら居間に上がると冷蔵庫を開けた。  風呂上りに何も飲んでいなかったので喉が渇いている。  背後の織部を振り返って、 「お茶でよければ」  と、ぶっきらぼうに一応尋ねると、素直に頼むと言う返事が返ってきた。  グラスを織部に渡すと、由汰も斜め後ろの板間に腰を下ろす。  わざわざ家にまで来てどう言うつもりだと、とっとと追い出そうと思ったが、ついでだから気になっていることをこの機会に訊いてみるのも悪くないかと気を取り直す。 「現場検証の結果ってもう出たの?」  グラスに口をつけながら、「いや、まだだろう」と暗い店内に視線をなげたまま、僅かに気の抜けた返事を返す。  こんな時間でもきっちりと髭の剃られた頬顎を見ると、織部の人となりが見えてくるようだ。

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