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 足を止めて半身だけで由汰を振り返えった、先ほどまで少し砕けかけていた織部の表情が、途端険しくなる。  帰り際に、こんな質問をなんの脈略もなくされればそうなるだろう。  完全にタイミングを見誤ったと織部の反応から後悔するも、口から飛び出してしまった質問はいまさら無かったことになどできない。  由汰は動揺する自分を外身だけでもなんとか平静に保ちながら、声が上擦らないように慎重に口を開いた。 「僕は、ちなみに今まで生きてきたなかでそう感じたことはないんだけど」  なるべく織部を逆なでしないよう穏やかに訊いたつもりだったが、当然のように織部の反応は思わしくない。由汰の質問をどうとったらいいのか分らないようで、警戒するような色が三白眼の奥に見え隠れする。 「なぜそんなことを訊く」 「なぜってそれは……」  そう訊かれると正直自分でも分らない。  ただ、昨日の刺々しい織部の態度が気になったから、その訳を聞きたくて。  もごもごと言い淀んでいると、それを見かねたように口を開く。 「そう思うのはお前がいかに身軽かってことだ。一見、世の中が同性愛者に対して寛容になったように見えるだろうが、実際はまだまだえげつない。下手すりゃゲイってだけで社会的信用も出世の道も失うことになりかねないくらいにな。そればかりか、そいつ自身の人間性の評価もガタ落ちだ。不利どころか俺は恐ろしくてたまらないね。特に社会の中で責任ある立場にいるような奴らからしたらな」 「刑事とか?」  なんの含みもなく純粋に頭に浮かんだことを言っただけだったが、なぜだかその一言が織部の癇に障ったのが解った。  薄暗い中で、織部の目に怒りとも取れる苛立ちが滲む。 「いいか、お前がよっぽどの箱入りか、もしくはお仲間同士の馴れ合いに浸りすぎて感覚が鈍っちまったのか知らんが、ホモセクシャルに対する世間の風当たりはお前が思う以上に強い。そんなもん警察なんて場所で揉まれて生きてりゃ嫌ってほど痛感させられるんだよ」 「つまり、それってあんた自身ゲイに対して何かトラウマ的なものや恨みを抱えているわけではないってことだよね。今いる環境がそうさせてるってことか? それとも他に何かりゆ……」 「理由なんてもんは無い」  と、由汰の言葉尻を奪って吐き捨てる。  はたして本当にそうなのか。織部の言動に、どこか違和感を覚えた。  拒絶や嫌悪感というよりも、そのものに対する底知れぬ恐怖が織部の腹の奥底に埋まっているように思えてしようがない。  どうも腑に落ちず、腕を組んで不服げに首を傾げる。 「理由もなく非生産的なんて言ったりするかな?」  織部も同様に腕組みして仁王立ちになると、高い位置から由汰を見下ろした。 「そもそもホモフォビアってのはそう言うもんだろう? 同性愛者に対する嫌悪感や拒絶、偏見というのは言葉で説明できるもんじゃない。理由なんてものは無いんだよ。いいか、いつまでも馬鹿なことほざいてないでさっさと寝ろ」  とは言ってもだ。由汰は指で唇をいじりながら小さく呻る。  デカイ図体して仕事もできて自立した立派な大人に見えるのに、何も恐れるものなど無いような男が、なぜそんな小さな枠に捕らわれてネチネチと燻っているのか解せない。 「子孫を残せないことがそんなに異常視されなきゃいけないことなのか?」 「お前な……」  鬱陶しそうに吐き捨てながら、忌々し気に目を眇める。 「無い頭使って少しは考えろ。お前だって知ってるはずだ。世間での自分の立場を確立するために隠れて結婚するホモセクシャルが後を絶たない現実をな」  なるほど。由汰は指で唇を摘むと軽く引っ張った。  つまりは体裁だ。  社会的信用を得て世間の評価を上げるためには家族を持つのが手っ取り早い方法だということなのだろう。とどのつまり長い物に巻かれるフリをしろという訳だ。 「なるほどな。そう言うこと」  非生産的人間は世間に認められない。もしくは認められづらいと言う意味か。  小さい頃に両親が離婚して、他の女との間に子供を作って出て行ったと言う顔も覚えていないフィンランド人の父親も、ろくに面倒も見ず子供をほったらかしにして遊び歩いていたふしだらな母親も、自分の家族があると言うだけで世間からは認められて評価されていたとでも言いうのか。  ろくでなしだった母親は評価されて、ゲイであるというだけで自分は除け者にされる。  世の中、所帯を持ったら一人前か。子供を持ったら一人前か?  由汰の心の乾いた部分が、くだらないと呟く。  織部みたいな男がそんな下世話なことを言うことも、なんだが凄く残念に思えて胸が鈍く痛んだ。 「満足したか」 「ああ……」  訊かなければよかったと先に立たない後悔を感じながら、由汰は少しだけ自己嫌悪に陥った。  他人の価値観にあれこれ言う資格など自分にはない。言いたいことはまだあったけれど、自分の意見を織部に押し付けるわけにはいかない。  諦観めいた気持ちとともに頭を少しばかり冷やすべきだなと、織部から視線をゆっくりと逸らす。  あからさまにガッカリしたことを悟られないように、慎重にゆっくり肩のラインをなぞるように。  織部の肩越しに大戸口を照らす頼りない街灯の明かりが目に入った。僅かに目を細めながら顔を伏せかけたその時、視界の端で、ゆらり……と何かが動く。  一瞬見過ごしそうになって逸らしかけた顔を止めると、伏せかけた目を戸口に向け直す。  ゆらり、とまた何かが動いた。  由汰の目がはっきりとそれを捕らえて瞠目したまま息を飲む。 「……南?」  顔は見えない。けれどしかし、見えない顔が確かにこちらをじっと見つめている。  名前を呼んでも反応のない由汰を不信に思った織部が顔を覗き込む。次の瞬間、由汰の目線が自分の肩の向こうを見ていると気づくと、隙のない動きで勢いよく背後を振り返った。  ゆらり、と揺れた影は織部の視界に収まることは無かったが、警戒するように、ひっそりと静謐の佇む無人の大戸口から目を離さないまま、後ろの由汰に問いかける。 「何を見た」  ――何を? 人だ。逆光のせいで黒いシルエットしか見えなかったが、確かに誰かがこちらを覗いていた。  不気味なぐらい静かに、気づいた途端、音もなく戸口から遠のいた黒い影。 「おいっ」  ハッとして、自分が両手で口を押えていたことに気が付いた。 「人をっ……」  上擦った声で慌てて答える由汰を確認するように、一度振り返って再び戸口に向く。 「顔は? 背格好は? 見えたのか」  と、由汰を落ち着かせるように、今度はゆっくりと言い聞かせるように問いかける。  事件のことで少し神経が過敏になっていたせいか、過剰に反応してしまった自分を忌々しく思う。ただの通りすがった人影をそう勘違いしてしまったのかもしれない。  早鐘を打つ胸をどうにか宥めながら、 「何も見えなかった。こっちを見ているように思ったけど、僕の見間違いかもしれない。後光でシルエットしか見えなかったし、それにもしかしたらただの通りすがりかも」  どうにか、平常通りにそう答えたものの、織部は由汰の言葉を信じていないようだった。  そのまま慎重に足音一つ立てず戸口に近づくと、戸枠に身を寄せて外の様子を伺う。  見間違いかもと言ったものの、本能はそう思っていないのか固唾を飲んだままその場から動けない。 「電気を点けたほうがいい?」 「いや、いい」  外に目をやったまま答える織部を見守るしかないようだ。  しばらくして戸口から離れると、店内もくまなく見て回った織部が由汰のところに戻ってくる。 「例の粋狂なマニアかな」  自分に言い聞かせるためと、緊張した空気を取り払うために「記者かマニアか」の話を持ち出してみたけれど、織部の反応はどこか険しい。  冗談を言っている場合ではない、とでも言いたげな表情に由汰は眉根を寄せて首を傾げた。  どうもおかしい。  最初から何か噛みあわない。 「なあ、僕に何か隠してることはないか」  気づけばそんなことを訊いていた。  この家に彼らは居ないと言い切る織部と、勘違いかもしれない人影を警戒しろとでも言いたげな顔の織部。 「この事件、彼らの居場所も犯人の目途も、もしかして見当がついているんじゃないのか」 「余計な詮索はするな」  都合の悪いことを訊かれると横を向いて否応なしに話を終わらせようとするのは織部の癖なのか。  大戸口へと身を翻す。 「なあ、本当は見当がついてるんだろう?」  追いかけながら織部の横顔に問いかける。 「そんなあからさまに分るような顔するくらいなら教えてくれてもいいじゃないか」  あからさまに分るような顔と言われたのが気に障ったのか、歩みを止めないまま黙っていろと言いたげにじろりと睨まれる。 「このままじゃ、今度こそ気になって家にいられない」  少々オーバーに言い募ると、戸口をガラガラと開けた織部が、足を止めて大きな溜息を吐いた。  怒らせてしまったかと反射的に身構える。  間近で三白眼に睨まれるとなかなかに迫力があって思わず謝ってしまおうかと思ったが、一瞬諦念めいた色が織部の表情に垣間見えたことで踏みとどまった。 「取り敢えず、伝えられることがあれば伝えてやるから、下手に詮索なんてしないで、お前が犯人じゃないって言うなら大人しくしていろ。間違っても捜査の邪魔になるようなことは絶対にするなよ。分かったな」  夜分を考慮して顰められた声からは、織部の感情を読み取ることができなかったが、彼がなんとなくだが、かなり譲渡してくれたのだと感じて頷くかわりに小さく肩を竦めてみせた。  けれど最後にと、戸口の鴨井をくぐる織部にひょいと一歩近寄って懲りずに口を開こうとした由汰に、それに気づいて振り返った織部がぴしゃりと告げる。 「おしまいだ。余計な話題はもう口にするな」  先ほどの話題を性懲りもなく蒸し返そうとしたのを察したのか、警告を匂わす目で一瞥されて、口にする前に終わらされてしまった。  諦めて気を取り直す。 「さっそく電球を換えるよ」 「戸締りも忘れるな」 「了解、刑事さん」      『願いを叶える催眠誘導の極意』と綴られたなんとも胡散臭い本だ。  今日は金曜日で染物教室の日であり、隣の小土間に既にセッティングを終え、生徒が来るまでの僅かな間に、書棚の整理を少ししてしまおうと、梯子に上って上段から新刊を入れるためのスペースを確保するため、地道に一冊一冊ずらしている時だった。 「逆さじゃないか」  一番上の段の見えにくい場所。  上下逆にしまわれた本を手に取って、その胡散臭そうな題名に思わず眉尻を下げる。  誰かが読んで、戻す時に逆になってしまったのだろう。  目の高さにある本であれば直ぐに気が付いたものの、いつから逆になっていたのだか、戻す時はきちんと上下確認してから戻してほしいものだとあれこれ小姑のような小言を心の中で呟きながら正常な位置に戻す。

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