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 そう言えばこの棚を整理したのはいつだったかな。戻した本に手を押し付けたまま視線を斜め上に上げる。  確か教育に関するプログラミングの本を大量買いした客がいて、在庫を補充しがてらついでに棚の整理をした時だったはずだが。 「先週の……木曜日?」  翌日の染物教室で使うカセットコンロのガス缶を買ってこないといけないなと考えていた日だったから木曜日だ。  あの時は上下逆に戻されていた本なんて無かったけど。  小さく首を傾げながら、まあいいかと梯子を下りかけた時、あっ……と、あることに気が付いた。  と言うことは金曜日以降に誰かがこの本を手に取ったと言うことになる。  金曜日と言えばあの少年たちが来た日じゃなかったか。  そう言えば、場所も確かこの棚の辺りだったはず。  慌てて下り掛けた梯子を上って先ほど直した本を手で掴む。 「……まさかな」  そんな都合よく彼らが読んでいた本が見つかるわけないと分かっていても、気になりだしたら止まらない。  丸山から頼まれていた金太郎の友禅染めもそろそろ仕上げの目途が見えてきたし、あとでチラッと目を通してみるくらいいいだろう。 「おっと、いけない」  由汰は慌てて梯子を下りると居間に上がって取り敢えずの補食を冷蔵庫から出す。  キンキンに冷えたブドウ果実のゼリーだ。  夕飯を食べる時間はないから、教室が終わるまでなんとかこのゼリーで低血糖を防ぐ必要があった。途中で倒れでもしたら格好がつかない。  先ほどの本をちゃぶ台に置いてから血糖値を測って、それから台所に立ちながら手早くゼリーを掻き込むと、タイミングを見計らったように大戸口から生徒の元気な挨拶が聞こえた。 「護身術?」  草木染の染液の入った大きな寸胴鍋の中で、煮立たせている布をさえ箸でゆっくりとかき混ぜている由汰の背後で、生徒の一人である女子大生の真理子が、近頃の物騒な事件のニュースなどを織り交ぜながら、護身術の話を興奮気味に披露しているのを後ろ耳に聞いて思わず振り返った。  七月最終週の金曜日の生徒は四人だ。小土間の中央に置かれた六人掛けのテーブルに各々腰掛けている状態。 「護身術をね、教えてくれるサークルが大学にあるの。あたしそのサークルで今ちょうど教えてもらってて。この時期って変な人とか多いじゃないですかぁ」  暑苦しそうな長い巻き髪を肩で揺らして、ピンクのツヤツヤなリップをした近所の大学に通う女子大生の真理子は、今時のミーハーなイメージのある元気な女の子だ。大学での専攻はなんだったか、以前話してくれた気もするがよく覚えていない。 「ねえ、護身術ってどんなことをするの? 格闘技みたいなものなのかしら」  神田すずらん通りで青物市場をご主人と一緒に経営している中年のきみ代が言う。  ふっくらとした体形で軽快によく笑う気さくなきみ代は、昌子と幼馴染みであり、きみ代のご主人とも古くからの友人関係にある。  『径』に刑事が聞き込みに来たことを昌子に教えたのはこの青物市場のご主人だ。ついでに言えば顔色の悪さを伝えたのも。 「あら私、以前に少しだけ習っていたわよ。格闘技とはまったく違って、いかに殴り合いになるような状況を避けるかってことが護身術なのよね?」  と、向かい側に腰掛けて、真理子に同意を求めるのは、近所に住む旦那が定年を迎えたばかりの専業主婦の静枝だ。身に着けている装飾品がどれも派手で高価な物ばかりの噂好きなマダムだった。  ごく潰しの旦那がいる家にはあまり居たくないのか、この染物教室以外にもいくつか習い事を掛け持ちしているという話だ。  そんな彼女達の話を黙って聞いているのは、昌子の娘で平多亜香里(ひらたあかり)。年齢は二十七歳で由汰とも年が近い。  以前は会社勤めをしていた亜香里は、そこでの過酷な労働時間やセクハラなどから、退職をして数年前から引きこもってしまっている。  詳しいことは知らないが、以前昌子の誕生日にあげた草木染のスカーフに引きこもりの亜香里が興味を示したことから、外出のリハビリの一環として、月一回のところを特別に月四回教室に通ってきている。  今では買い物程度なら外出もできるようになった。  引きこもりになる前も口数の少ない大人しい子だったが、今はそれ以上に無口で表情が乏しい。けれど、毎週遅刻もせず真面目に通ってくるところをみると染物教室を気に入ってくれているらしかった。  今月の染料はキハダだ。キハダという落葉木の葉を使った草木染めをしている。  由汰は、友禅染め以外にも三千雄から水遊びと称して、藍染を始めとする多様な草木染も教わった。  染物教室で友禅染めを教えるには手間暇がかかりすぎるので、簡単にできる草木染を教えている。  草木染は基本、染料を寸胴鍋などの大きな鍋で煮立たせて色を出す。  そこに布を投入してさらに沸騰しないように煮詰めて、煮詰め終わったら布を取り出して媒染液に漬け込み完成だ。  あとは軽く水洗いして乾かせばいい。  淡い黄色をして、媒染の仕方次第で緑がかったり、茶色がかったりするキハダは草木染の中でも色が出やすく染めむらも少なく発色もいい。 こちらで用意しておいたお弁当箱が入るほどの綿布の巾着袋に、染める前に模様を出すための絞り作業を行う。針糸や輪ゴム、割箸などを使って、丸だったり格子模様だったりと好みの模様を選んで絞る。 あとは寸胴鍋に入れて煮るだけだ。  夏なので、少し翠がかった爽やかな色合いに仕上がるよう、鉄媒染にする予定だ。  小土間には、中央に六人掛けのテーブル、壁の隅っこに設置された業務用の大きな流し、カセットコンロを置くためのサイドテーブルが一つ置かれただけの簡易的な作り。  先ほどの静枝の言葉に対して真理子が一つ大きく頷いて、 「そうそう、基本はそうなんですけど。例えばその他にも家に近づいたら鍵の準備をしておくとか、帰宅ルートや時間帯を時々変えるとか? けど今あたしが習っているのはもっと実践的なことなんですよね」 「へぇ、実践的なことって例えばどんなこと?」  コンロの火を弱火に切り替えながら適当な合いの手を入れると、由汰が話題に食いついたとでも思ったのか、真理子の声にあからさまな喜びが混じる。 「南先生も興味ありますぅ?! なんならあたし、教えましょうか?!」  テーブルに両肘をついて胸を強調するように身を乗り出して、積極的にアプローチしてくる真理子に内心で冷めた眼差しを向けながら慣れた笑顔で受け流す。 「いや、僕はいいよ」 「あら、私は是非知りたいけど。例えばどんなこと?」  好奇心旺盛なきみ代が楽しそうに目を瞬かせる。 「じゃ、あたし実践してみせますね」  そう言うやいなや勢いよく立ちあがって、由汰の前に駆け寄ってくる。 「あたしと先生で実践してみせますんで、よく見ててくださいね」  役得と言わんばかりに頬を少しばかり赤らめる真理子に思わず眉根を寄せる。  あたしと先生でとは、いったい自分に何をさせる気なのか。 「えっとぉ……」  と、小首を傾げて少し照れたような表情で由汰を見上げるとクルッと背を向けた。 「あたしを後ろから羽交い絞めにしてください!」 「――え?」 「いいから早く羽交い絞めにしてください!」  背中を向けたままじっと待つ真理子を由汰はしぶしぶ背後から抱きしめた。 「こうでいいの?」 「もっときつく!」 「こ、こうかな」  言われた通り腕に力を込める。 「もうっ、こんなんじゃ全然ダメダメ! 先生、自分が強姦魔だと思ってもっと必死に抱き着いてくださいよぉ」  斜め上目遣いに睨まれて、真理子の魂胆があからさまに解かるだけに、胸中で深い溜息を吐いた。真理子の豊満な胸が腕に触れても申し訳ないくらい何も感じない。  自分がゲイだと知らない彼女は、以前から由汰にあれよこれよと色仕掛けをしかけてきては、事あるごとに触れようとしてくるから、由汰も少々辟易しかけているところがあった。  面倒臭い半分、申し訳なさ半分だ。  きみ代たちもそんな真理子の魂胆を知ってか知らぬか面白顔で観覧を決め込んでいる。 「なら、……遠慮なく」  半ば投げやりに言われるがまま真理子を引き寄せると、こうなったら絶対に抜け出せないように渾身の力を腕に込める。  念願の由汰先生に背後から抱きすくめられて嬉しそうな声で「苦しいぃ~」と身を捩る真理子が、 「で、ですね、こう言う状態からどうやって抜け出すかって言うと、まず冷静になって相手の胸に寄り掛かるように重心を傾けてから……」  説明しながら由汰側に真理子の体重がかかる。 「尻もちをつくようにお尻から思い切って座り込むんです」  こうやって! ――と言った次の瞬間、真理子がすとんっと由汰の腕の中から抜け落ちて消えた。 「あ!」 「わっ!」  と、方々から歓声があがる。  抱きしめていた腕が空を掻いて由汰自身思わず呆気に捕られてしまったほどに。

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