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 当の真理子と言えば、由汰の足元で文字通り尻もちをついて座り込んでいる状態。  ミニスカートで乱れてしまった足元を隠しながら、どうだった? 凄いでしょ? 褒めて褒めてと言いたげな満面の笑みを向けてくるのへ、由汰も思わず苦笑顔を返す。 「確かに凄いね。まさかこんな簡単に抜け出されちゃうとは思わなかった」 「随分あっさり抜け出されていたけど、手加減なさってたんじゃないでしょうね?」  訝し気に問うてくる静枝に首を振りながら、「本気でやらせていただきましたよ」と肩を竦めてみせた。  それからと言うもの、布が煮あがるまでのしばらくの間、真理子の護身術談義は続くことになる。  当然のように強姦魔役をその間ずっとやらされた由汰は、もうどうにでもなれと半ば投げやりになりながらも真理子の講義をなんだかんだで楽しんだ。  染め上がりは上々だった。  真理子の談義が思いのほか長引いたせいで時間が押して既に二十二時だ。 「亜香里ちゃん、今日はもう遅いから片付けはいいよ」  テーブルを拭き始めようとしていた亜香里に声をかけた。  教室の間、一言も喋ることはなかったが、それでも亜香里自身、真理子の護身術を興味深げによく聞き入っていた。  教室が終わったあとは、いつも片付けの手伝いを亜香里がかって出てくれていたが、今日は遅くなってしまったし、近所とは言え女性の一人歩きは何かと危ない。 「良かったら送っていこうか?」  申し出ると小さく首を振る。  布巾をテーブルに畳んで置いて、由汰に言われた通りバッグを持つと小土間を出る。  由汰も見送りに亜香里の跡を追い大戸口まで来たとき、不意に亜香里が足を止めて振り返った。  戸口に手を掛けながらどうしたのかと首を傾げると、何度が言い淀みながら、 「由汰くん、お見合いするの?」  と、か細い声で訊かれて「え?」と思わず目を瞬かせる。  亜香里とも昌子同様付き合いが長く、初めて出会ったのは由汰が十五歳で亜香里が十一歳の時だった。 亜香里の家の隣が自動車修理工場とあって、終日修理などの作業音で騒がしく、期末試験や高校受験、大学受験の時は『径』の小土間、まさに今日染教室で使った部屋で毎日のように勉強していたものだった。静かでその上、書店にはわんさか参考書がある。そんなこともあり、お互いを「くん」「ちゃん」で呼ぶ仲だ。  言われたことが先日昌子から持ち込まれたお見合い話だと分かり、ああそのことかと苦笑する。 「昌子さんが言ってたアレだろう? しないよ、しない」 「でも、お母さんかなり本気みたいだけど」  そうなのだ。いくら由汰が断っても馬の耳に念仏よろしく全く請け合ってもらえないのだ。 「お母さん、由汰くんの病気のこととか本当に心配してて。今回のお見合いの件もその、由汰くんのことを考えてのことなの。けど……」  と、そこで一瞬口籠ると足元に視線を落として、俯きながら聞き取れるか聞き取れないかほどの声で呟く。 「……断ってね」 「ん?」 「断っていんだからね」  と、今度は顔をしっかり上げて告げる。  驚く由汰に、 「嫌なら……断っていんだからね」  と、再度そう告げた。  昌子に遠慮して断れないとでも思ったのか、気を利かせて言ってくれたのだとこの時の由汰はそう思ったが、それが違うことを後に知ることになる。  ありがとう、と笑顔を向けると、それじゃと背を向けた亜香里が、何かもの言いたげに何度か振り返ってみせたが、その内諦めたのかそのまま暗い路地を小走りで駆けて行った。  来週、昌子がパートに来たらもう一度きちんと話をしよう。  とにかく、今日も一日がようやく終わった。体調は悪くなさそうだが、残りの片付けと夕食を考えると気が重くなる。  教室の片付けなど諸々を済ませて風呂から上がったあと、逆さにしまわれていた例の『願いを叶える催眠誘導の極意』を夢中になってつい読み入ってしまった。 「二時か……」  いい加減寝ないと明日の仕事に響く。  作業場で座椅子に座って卓上ランプだけで本を読んでいた由汰は、目頭を人差し指と親指で押さえながら大きなあくびをした。  催眠術なんて胡散臭い手品かなにかかと思っていたが、読み進めていくとなかなか興味深く、手品どころかこれは魔術だと思った。  具体的な実例とともに細かく解説されているが、もしもここに書かれていることが真実なら、催眠術を使った犯罪は気づいていないだけで世界中で横行しているに違いない。  読み進めると、日本と比べて欧米での催眠術師の腕は遥かに優秀で、実際に欧米では腕はあるのに倫理を持たない者たちの催眠術を使った犯罪がいくつもあるらしい。  実践で使える誘導方法も事細かに説明されているが、やや右脳体質の由汰としては、うまく出来る気がしない。  正直、内容は面白いが半信半疑だ。  ここに書かれているスキスキ催眠術なんてふざけたネーミングの、誰かを好きだと思わせる催眠術や、そこに無い幻聴や幻覚を見させる催眠術、味覚を変えさせるものや記憶を消すための暗示なんてものもあるらしく、掘り下げていくと催眠術とはなんと恐ろしい。  物理的な痛みや苦しみを消したり(感じなくさせたり)、対人関係も概念も自我もリセットできてしまうとなれば、それはもはや神の領域ではないか。  人間が踏み込んではいけないように思う。  ユーチューブなどで実際に誘導している動画が見られるらしいから、あとで覗いてみようと思う程度には興味を惹かれていた。  よくテレビなどでやっている、巧みな言語を駆使してショーさながらに見せる催眠術があるが、大体の暗示は椅子に座らされた時点で完了しているのだと言う。  トークを交えて行うのはショーを面白おかしく見せるための単なる脚色でしかないと言うことだ。  由汰の興味を誘ったのは中盤の章にでてくる「非言語催眠」と言うものだった。  その名の通り、言葉を使わずに相手を催眠誘導できると言うなんとも不道徳にも思える術法だ。しかも成功率は九十パーセーントと高確率らしい。  自分の気づかないうちに催眠術を掛けられていたらと考えただけで、ゾッとする。服を着ているつもりでも本当は真っ裸で往来を闊歩しているかもしれないと言うことだってあり得るのだ。  ステーキだと思って食べていたものがネズミの死骸なんてこともあり得る。  自分で想像しておいて顔を渋面させた。今しがた思い浮かべた悲惨な残像を脳裏から振り払うように、顔の前で手をひらひらさせる。  かかりやすい人、かかりにくい人と言うのはあるのだろうか。  先を読み進めればそれについての解説も出て来るかもしれないが、名残惜しいかな今日はもう寝なければならない。  ふと、不遜で傲慢な男を思った。織部みたいな男は催眠術なんかにかかったりするのだろうか。意のままに操られている様など容易には想像できないが。

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